前回からの続きです。
それじゃあ「町へ出よう」とは?
「それじゃあ、町へ出ようとは?」と問うと「与えること」と返ってきます。
「与えるとは?(もうちょっと具体的でお願いします・・)」と問うてみると、なぜか、あの、わたしが10代の頃、親に連れられて、病院巡りをしていたときのことを、思い出したのです。病院巡りだけでなく、お友達のお家に行っていたことも、思い出した。
あの頃、わたしは、本当にわけわかっておらず、時間も有り余るほどあり、とにかく、誘われていたら、どこへでも行っていた。確かに、病んでいたけど、いろんな人が「遊ぼう」と誘ってくれていた時期があった。
わたしは、物質的なものは何も与えていないし、むしろ物質的とかで言えばいただくことの方が多く、受け取ってばかり、世話をしてもらってばかりで申し訳なく、「何か人様のお役に立てた」などの記憶は一切なく、どちらかというと、たくさんの迷惑をかけて申し訳ない、恥ずかしいこともたくさんしたに違いない、よく覚えていないけどそうに違いない、親にも他人にも甘えたい放題、頼りたい放題、助けてもらいっぱなし、穴を掘って「この頃」を埋めるわけにもいかないので、神様にずっと「過去を祝福してください」と祈り続けていた過去。
「どういうことでしょうか?このときわたしが与えていたということでしょうか?そんなまさか。まさかそのまさかということでしょうか?どういうことでしょうか」と問うと、
10代の頃、鬱でお風呂にも入れず、という頃があり「お風呂に入れていないから、病院に行きたくない」とわたしがいうと、母が「(お風呂にも入れないほど)だから病院行ってるんだから、それでいいのよ!」と言い「そっか」と、そのまま行った日のことを思い出した。
そして「ただ、自分にリボンつけて、はいどうぞ」とする感覚が浮かんだ。
ここまできて、本当に与えるのは、神様のお仕事、ということが、思い出された。
「わたしが」与えるのではない。
神様が「わたし」を通して、与えたいということなんだ。
それでじゃあ「本当に、与えていたのかどうか?いや、だって患者さんだったんですよ。わたしは神様を遮ったのではないでしょうか?」という問いについては、
「相手を思えばわかる」という答えが返ってきた。
そして、その頃であった人たちを思い出すと、みんな、本当に、たくさんのものを与えてくれていた、よくしてくださった、愛してくださったし、大切にしてくださった・・と心から感じられた。もちろん「たくさんのものを与えられて」の「たくさん」は物品労力時間というよりも、もっと、その奥にあるもの。
こんなふうに感じられない時期もあったけど、今は、みんな、本当に、たくさんのものを与えてくれていた、と感じられる。
神様が過去を祝福してくださって、わたしはそれを受け取ることができたんだ、と思った。ずっと、わたしが、わからなかっただけで、ずっとそこにあったんだ。
自分が自分をダメだと判断していようが、できていようができていまいが、なんだろうが、「どーん」と、「はい、どうぞ」と、自分を相手に「与える」感じ。これは、感覚的な、感じ。
ここまで書いてみると、逆に「ちゃんとしてから、与えよう」ということが、出し惜しみなのかもしれない、と思った。
「ちゃんとしてから、与えよう」「お風呂入ってから、与えよう」
「自分で自分をなんとかしてから、与えよう」「安全確認してから、与えよう」
恋愛とかでいうと、
「自分磨きをしてから、自分に自信をつけてから、花嫁修行をし尽くしてから、家族養えるほどの年収になってから」
やってみたいこととかでいうと、
「時間に余裕ができてから、貯金がいくらになってから、家族を説得してから、コミュ障を自分で治してから、ある程度予行練習をしてから、心の準備ができてから」
・・こういう「〇〇してから、与えよう」が、いわゆる「出し惜しみ」なのか・・!
この「自分でなんとかする」「自分で正しくする」「自己完結」「自分できっちり予習してから」「自分で考えてわかってから」「自分で理解してから」「自分で納得してから」・・これって、出し惜しみなのか・・!
だからといって、それで罰が当たるとか、愛に相応しくないものとしての烙印が押されるとか、そういうことではないのですが。
神様は自分を通して与えたがっていて、その「自分」についての判断評価などは、一切求められていないのに、自分についての「良い、悪い」などの判断評価ごっこにハマっている間、世界は、人々は、あなたからの愛を待っている。
神様は、愛なので、ただ、愛で待っている。いつも、どんなときでも、永遠に、ずっと。
その上で、この、自分についての「良い、悪い」などの判断評価ごっこに、自分が自らハマり、「もう、こんな年齢だから無理かもしれない」と、また、判断評価ごっこをする。
そして、「せめて、若返りのなんか努力でもしようかしら」「せめて、性格だけでもよくする努力をしようかしら」「せめて、お金だけでも稼ぎたいわ」とか「せめて、この恐れや憎しみを自分の力でなんとかしなければならない」などなど、なんとかしなければならないゲームをはじめようとする。ゲームソフトは山ほどの種類がある。
いや、まぁ、わたしも、この「ちゃんとした自分になってから、あれをしよう(1点目:自分でなんとかする、価値判断、条件付け)」みたいなことを、やってたこともありますけれども、
これをやって「町へ出よう!誰かと会おう!何かをしよう!」ってすると、
「はい、わたし、ここまで、なんとかしてきましたわよ?認めてよね?(2点目:承認欲求)こういう結果くださいよね?(3点目:駆引取引)」となる・・。
まさに、これ、セットだ・・。
(自分ひとりでなんとかしようとする)ー(承認欲求)ー(取引駆引)は、3点セットが基本!なんと!送料無料!今なら「期待はずれ、嫌な予感だけ当たる」が無料プレゼント!さらにさらに今回は「胸の痛み」も無料でお付けすることに成功いたしました・・!みたいな感じなのではないか?
それみて、速攻で電話かけて、申し込んで、価値判断ごっこに夢中になる。
確かに、神の子がこんなことやってる場合じゃない。こんなことやってる場合じゃないから、苦しいのだ。