インディアンに伝わる「心の中の二匹の狼」というお話があります。
ある晩、チェロキー族(インディアン)のおじいさんが、人の心の中に起きている戦いについて、孫に話しました。
「今から話すことは、心の中に住んでいる狼の話だよ。
おじいちゃんの心の中にも、お前の心の中にも、みんなの心の中にも、二匹の狼が住んでいる。
そして、その二匹の狼は、闘ってる。
一匹の狼は、怒り、羨望、嫉妬、悲しみ、後悔、貪欲、傲慢、自己憐憫、罪悪感、憤り、劣等感、嘘、偽りのプライド、優越感。
もう一匹の狼は、喜び、平和、愛、希望、静けさ、優しさ、謙虚さ、慈悲、共感、寛大さ、思いやり、信頼。」
それを聞いた孫は、考えていたのか、少しの間黙ったあと、おじいさんに「どちらが勝つの?」とききました。
おじいさんは、あっさりと答えました。
「お前が餌を与えるほうだよ」
※この日本語訳は原文をGoogleに翻訳してもらって、そのGoogle語を、ringo翻訳したので、原文に興味のある方は「Two Wolves」「二匹の狼の話」などで検索してみてください。
「選ぶ・選択する」というとき、このお話を思い出すことがありました。
最近、祈りについて、お話するとき・ブログを書くときに、なんかもう二択という感じで、それと同時に、やたらと、このお話を思い出すので、ブログにも、書いてみました。
もちろん、解釈というか、感じ方というか、意見というか、色々、さまざまにあると思うのですが。
一匹目の狼が、エゴ(自我)です。おじいさんも言っているように「わたしたち全員、みんなの心の中に」住んでいます。
もう一匹の方の狼が、エゴじゃないほう(エゴ以外のほう)、です。これも、おじいさんも言っているように「わたしたち全員、みんなの心の中に」住んでいます。
エゴ以外の方の狼は、なんというか、愛というか、光というか、神聖さというか、創造性がそのまま気持ちよく伸びやかに広がっていってる方というか、ほんとうの個性が輝いてる方というか。
「本来のわたし」のほう、というか。
わたしたちは、この、二匹の狼を心の中に飼っていて、「餌を与えたほうが勝つ」とおじいさんは言っていますが、この感覚も「祈り」みたいな感じだとわたしは思っています。
わたしたちが、一匹目の狼に餌を与えてしまっているとき・・・。
あるいは「一匹目の狼=わたし」ということもあったかもしれません。
そういうときは、もう一匹いることを、思い出したいというか。
思い出したいというか、というよりも「そうらしい、そうであると知りたい」と思うか、思わないか、みたいな感じです。
どんなにがんじがらめのような気持ちのときも「今、一匹目の狼しかいないように感じるけれども、自由や喜びの狼も、いるらしい」みたいな。
そして、自分(意識)が餌を与えたほうが、勝つ。
これは、もう、ほんとうに、そうだと感じます。
最初は、多くの方が、どうやって餌を与えているのかわからない、餌を与えている実感がない、餌を与えることなどできない、といいます。
言い換えると「選ぶがわからない」「選択するがわからない」「手放すがわからない」「祈るがわからない」「抵抗がきつい」等。
これについての回答ですが、
練習あるのみ
です。継続です。
必ず、上達します。
必ず、なにかが、あります。