「無視」と「光」

何年か前の話になるけれども。

ちょうど、今日と同じ香りがする日のことを思い出した。

季節も今くらいで、お天気も今日みたいなお天気。

透き通るように晴れて、わたしのわがままをすべて叶えてくれたような空、風、気温、景色だった。

わたしが住んでいる場所は、最高に自然が豊かで、毎年、まるで遊園地のように、木々、花々が、踊っている。

まるで楽園のような数年前のある日。

わたしは、車でコンビニに寄った。

車をとめて、車から降りて、コンビニで用事を済ませ、お店から出ると、ある女性がコンビニの店員さんに「あの人よ!あの人!」と言いながら、「ちょっと待ちなさい!」と、わたしの方へやってきた。

 

 

この女性は、わたしが車を止めるときに、わたしの左方向にいた車を運転していた女性だった。

年齢は、若めに見積もっても、75は過ぎていると思う。

駐車場はそこまで混んでいるわけではなく、わたしはその左側の車を認識し、様子を伺った上で、車を駐車したことをはっきり覚えていた。5分経つか経たないかのことだった。

 

 

その女性は、わたしの目を見ながら、怒鳴っていた。

すべてのセリフは覚えていないけれども、「あなたの車が偉そうに、調子に乗って、わたしを無視して、駐車した」という内容は、今でも覚えている。

推定20代前後のアルバイトの女性は、うつむきながら、ただ静かに、推定75歳の女性のそばにいた。

 

 

その女性は、わたしの目を見ながら、確かに怒鳴っていたのだけど・・

そのとき、わたしは、驚いていた。

あまりにも「静か」だったということに、驚いていた。

心というのか、空間全体というのか、よくわからないけれども、静けさで満たされていることを、すごく感じていた。

とにかく、静かだった。

わたしも、その女性の目を見ていた。

 

 

わたしは、この、あまりにもはっきりとした静けさに、最初驚きながらも、その静けさに身を委ねることにした。

時間にして、1分とか、そのくらいだったんじゃないかと思う。

わからないけど、そんなに時間がかかっていた感じはしなかった。

推定75歳の女性は、まるで「一仕事終えたので」とでもいうかのように、ただ、去っていった。

20代前後のアルバイトの女性は、なぜか、わたしに、「申し訳ありません」と言った。

どう考えても、その20代前後のアルバイトの女性は、わたしに謝罪する必要はなかった。

わたしは、その20代前後のアルバイトの女性以上に深々と、「こちらこそ、大変申し訳ありません」と謝罪した。

なぜ、自分がそうしたのか、わからない。操り人形のようだった、と今も思う。

 

 

とにかく、静かだった。

 

 

そして、この静けさは、祈りや瞑想をしている中で、よく感じるものでもあった(現在進行形)。

 

 

最近、いろんな方とお話をしたり、メールをしたりする中で、

「光は静謐さであり、その平安の中で心眼が与えられ、私たちは真に見ることができる(中央アート出版 奇跡講座 W-pI.108.7:5)」

という一文を、よく、思い出していた。

レッスン108と言えば「与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである」で、これは、ちょうど、2週間くらい前のレッスンでもあった。

 

 

自分では気づかないところで、多くのものを、すでに受け取っていたのかもしれない。

自分では気づかないところで、完璧に、導かれていたのかもしれない。

そういうものなのかもしれない。

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