自己否定と感謝

今回の記事は、祈りや具現化や「すでにある(願い=叶う)」に関連するお話でもありますし、【Xmasプレゼント企画】3ヶ月お祈りレッスンに関連する記事でもあります。

 

 

謙虚と謙遜。

これは、多くの人が、相手に対して自分を下に下げる感じ、自分が自分を見下す感じ、「わたしなんか」という感じになる、ということがあります。自我を通した解釈をすると、どうしても、自己否定や劣等感がベースになってしまう。

謝罪もそうで、確かに、日常生活の中で、「ああ、申し訳ないことをした」と思えば、素直に謝ることは、誠実で正直でお互いにとって豊かな人間関係を気づくことができますが、罪悪感やおそれや自責が深いと、「謝罪しすぎてしまう」ということがあります。これもゆきすぎてしまうと、自分も相手も、困惑してしまうことに、繋がることがあります。

 

 

「だから中庸になりましょう」ということを言いたいわけではありません。

頭を使う話では、ありません。

 

 

真の謙虚、真の謙遜、というのも、自分自身との対話=内なる神との対話、信頼関係を通して、育まれていくものです。

ざっくりいうと「物質的にも内面的にも豊かで幸せな人、成功者」「すごい人」というのは、

決まって、腰が低く、やはり、実るほど頭を垂れる稲穂かな、という感じがあります。

真の謙虚さ、真の謙遜を備えていて、とても、いい香りがします。

 

 

 

さて、ここで。

クライアントさんとの会話の中で、しばしば出てきた話題というか、ご質問というかなのですが。

「どう考えても、ひどい人(モラル、思いやりなどがなさすぎる等)で、物質的に豊かな人がいるのは、なぜでしょう?」

というものがあります。

「物質的に豊かになるプロセスが、異なる」ということはお伝えしてきたのですが、今日はまた他の角度から。

 

 

「どう考えても、ひどい人(モラル、思いやりなどがなさすぎる等)で、物質的に豊かな人」というのは、はたからどうみえたとしても、実は自己否定や罪悪感がとても強く、「わたしなんかに」や「申し訳ない、でもありがたい」みたいな謙虚さなところもあって、強く深く感謝できることがあります。

 

 

この謙虚さ、強い深い感謝、ということ自体は、奇跡、願い=叶う、というところには欠かせません。

しかし、自己否定や罪悪感を隠した感謝と、深い深い安心の中での感謝は、全く異なるものを具現化していきます。

自己否定や罪悪感を隠し持つと、過去ー未来という時間の中の思考になるので、

 

 

「今」という創造性を受け入れることがこわくなる、言い換えると、

過去ー未来という時間の思考にいて、「なんとかしなくっちゃ!」という気持ちや、過去の傷の体験の感情が出てきてきたりします。

 

 

自分と向き合う、ということや、内側がすべてなんだ、ということを、かなり深く受け入れられてきても、

この思考が忙しなく、働く感じは出てくることはあるのですが、

さらに深く内側、内側の奥にある内なる神秘と繋がる意欲を持ち続けて、感謝を大いなる存在に捧げることで、

自己否定が強いという経験がある場合は、完璧な神に、ただ安心の中で、深く感謝する、ということができるのです。

自己否定が強かった頃の、自責や罪悪感が深かった頃の、

「申し訳ありません、でも、ありがとう」「こんなわたしなんかに、ありがとう」という、あのデータは、浄化を経て、

完璧な創造性、法則性に対する、ピュアで、喜びに溢れた、深い感謝、すでにあること、受け取ったことへの深い感謝に、なるのです。

その広がり、奇跡を、体験していく、というのは、「焦り、ヒヤヒヤ、ドキドキするようなスリル」などとは、まったく別次元のスリル、ほんとうの意味での冒険なので、飽きるなどということも、疲れるということもありえないのです。

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