今日は家中に満ちているのでブログを書きます

わたしたちは、よく、目の前のものを「ありのままに見ることができない」となることがあります。

ありのままに見る、というのは、ラベル・レッテル・決めつけ・過去からの情報・自分が信じ込んでいる思い込みが、全くない状態で、見る、ということです。

わたしは、まだ心理学を重点的に学んでいた頃、この「ラベルを貼らない、まっさらな状態でいること」の訓練を、ずっとしていました。

去年、スピリチュアリティの方へシフトしたときは「目の前の方の鏡でいること」というメッセージを受け取りました。

 

 

わたしの中で、どんどん「これはいい、これは悪い」という意味づけ、ジャッジやおそれが、消えていっています。ブログを書き続けていて、ふと、思い出したことでした。

たとえ、エゴでコーティングされていて、こちらから見ると、ただのチョコレートにしか見えないようでも、その奥には、必ず、愛があります。

鏡をピカピカにしていることは、これからも、ずっと、続けていきます。

 

 

この一年は、今までにない、霊的な一年でしたが、これは、スタートに過ぎないのだと思います。

そして、このタイミングであったことを、わたしは、ほんとうに見事だと、大いなる存在を感じます。

これは、わたしに限った話ではありませんが、すべてのことには意味があります。

意味、というのは、完璧な、という意味での意味です。

なにか、ショックなことや、逆にとても嬉しいことが、あったとき。

「すべてのことには意味がある(らしいぞ)」と思って生きるのと、そうでないのとでは、どのような違いがあるのでしょうか。

わたしは、なぜか、昔から「すべてのことには意味がある」と、なんだかふんわりざっくり、思って生きていて、今思えば、それは、「神とともにある」という言葉で言い換えることができることだと、感じています。

もちろん、神だったり、「すべてのことには意味がある」だったり、法則だったりを、知らなかったとしても、あるいは知っていてもそれに沿っていなかったとしても、すべての魂は、等しく誇り高く尊いものです。言葉では言い表せません。

 

 

もちろん、ここに書いてあることではない考え方も、世の中にはたくさんあって、すべていい、オールオッケーで、けれども、自分の考え方が自分の人生の体験を決めていくということは、もうこれはそういうものです、というものです。

「人生山あり谷あり、楽ありゃ苦もあるさ」とか「人生とはこういうものだから、早いうちにこうしておかなければならない」とか「幸せや喜びは続かない」とか「お金は自分が頑張って稼ぐもの、命はお金に支配されているもの」とか、このような、考え方・信念があっても、いい。だって、宇宙は全肯定ですから。

ほんとうに、このように、信じていたかったら、いいんだ、ということです。わたしは、以前、「このような考え方を信じていることは、悲しいことだ」と、抵抗していた時期があったので、今、とても風通しがいい広々とした感じなのです。

けれども、わたしは、「人生山あり谷あり、楽ありゃ苦もあるさ」とか「人生とはこういうものだから、早いうちにこうしておかなければならない」とか「幸せや喜びは続かない」とか「お金は自分が頑張って稼ぐもの、命はお金に支配されているもの」というのも、ずっと、変な感じがしていて、

この考えを持って苦しみながら、その苦しみで共感しあったり、あるいは、「そういうものだ」と決めてはを食いしばっている誰かや、場面を見ると、身体中が、痛くなっていたのです。

そのわたしに「この世は鏡で、内側に原因がある」という朗報が届いたのです。

※内側に原因があるというのは「自分が悪い」とか、こんなにできが悪いからだとか、自分を責めるお話ではないですよ。何度も何年間も、しつこく、ねちっこく、書いていることですが(笑)

 

 

スピリチュアリティの学びとは、このような自己呪縛からの、自我の洗脳からの、解放です。

まだまだ、スタートラインなのに。こんなにも、幸せが、溢れています。

今夜は、とっても、とっても、幸せが溢れているので、ブログを書いてみました。

今日は、もう、ほんとうに、法則性のすごさに、感謝でいっぱいです。

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