この世界では、光があるから影があります。
影があるということは、光があるということ、
影が強いということは、光も強いということ。
曇りの日には、影はできません。
光に向かうときだからこそ、自らの内側にある影も出てきます。
魂の輝きが、強く放たれるときを迎えたからこそ、自らの内側にあった影が出てくるのです。
この「影」は、悪ではありません。確かに、この世なので、歪むことはあったかもしれませんが、それは、もう、人間の性のようなものです。
そして、どんなに歪んでいようと、その奥には、光があります、愛があります。
自らの影を丁寧に、大切に、よく、みて。
その奥に必ずある光を見つける。
それを、捧げる。
これも、内観、浄化、解放です。
もし、光だけなら、そもそも「この世界」にきてはいないと、思うのです。
だから、その影を罰する必要も、裁く必要もない。
そうする必要がない、そんなことするのはほんとうに無意味で、時間の無駄であると、すんなり思い出せるまで、何度でも、思い出したい。
「影が強いほど、光は強いのだから」ということを、何度でも、思い出したい。
自らの、内側にある、影を見にいくときは、とてもとても、恐ろしい、ということは、よくあることです。
なぜなら、内側の影を見にいって、その影の奥にある完璧な愛を見つけてしまったら、自我は困るからです。あるいは、内側の影を見にいって、とてつもない罪悪感に遭遇してしまい、神・原理原則・法則を求めては、自我は困るからです。
恐ろしいような気がしていたのは、そこに、あまりにも強く輝きを放つ光、光の源泉が、あるからです。
自分自身に、それがあるのだ、だから、愛する力も、愛される力も、認める力も、ある・・・このことを、否定するということが傲慢さです。
だから、影を、丁寧に、大切に、見ていっていい。
けれども、影に飲み込まれるような、妄想を招き入れる必要はありません。
闇の中はこわいように感じることがありますが、今、光に向かっているから安心してこれを見ていい、自らの内から溢れてきている闇も、すべて、光に戻るために、現れている、ということを、確信するまで、思い出したい。
年末のこの時期。
「来年はいい一年になったらいいな」と思う方も多いでしょう。
様々な引き寄せ系のワークもあると思いますが。
このような時期こそ、影があるなら、それを丁寧に見て。その奥にある、ほんとうの本音、愛、光を、一つでも受け取って。
今年一年間を「導かれていた」という目で、見たいものです。
今、幸せな人は大いなる存在に感謝、ですね。
今、幸せを感じられないという人は「今はそうとは思えないけれど、大いなる存在による最高最善の導きを受け取っていたらしい。今はわからないけれども、このことにも、意味があるらしい。未来の最高に幸せなわたしは、その意味に感謝しているかもしれない」と、感じてみるのも、いいかもしれません。
陽に転ずるときだから、陰が濃く出るのです。
それをおそれて、光も影をおさえて、曇りでいようとしても、おそらく、自分の心や体が、教えてくれます。
影をみて、手放すものは捧げて、愛の思いも捧げて、と、こちらから神様に頼むことは大切です。
なぜならば、神は完全全肯定なので、頼んでもないのにしゃしゃり出てお世話焼きする、コントロールする、ということがないのです。
けれども、頼めば、すぐに、答えてくれます。本音と一致しているほど、その答えを受け取るのも、早いと思います。