いまの去年

今の去年を書いてみようと思います。

 

 

 

(1)自分の計画ではなく神の采配

去年は、まず「自分の計画を放棄する」からはじまりました。

自分の計画=自我の計画=おそれ・不足・欠乏に基づいた計画。

これに手前で気づいて「これまでの習慣」に飲み込まれない。

ただ静かにしている。そのままで、いいよ、です。

 

 

 

(2)完璧でないことを喜んで認める

これは去年に限った話ではなく、以前からですが。

「わたしは完璧主義(なにもできない方の完璧主義)」というのが、長年何度も出てきました。

「完璧でありたい」「完璧だと見られたい」つまり「自分は不完全であり、不完全な自分は罪悪であり恥であり、それを隠さなければならない」と思い込んできたということで、さらにこのことを問題視してきたのです。

「自分が神にとって代わりたい」という”考え”も出てきました。この観念に気づいたときは、しばらく罪悪感が続き、しばらくはブログにも書けないほどでした(笑)こういうのって、終わらないと書けない。

いずれも「頭では、わかってるんだけど」なのですよ。つまり「頭で、わかってる」などは意味がないことであり、「そんなのわかってる、知ってる」を言葉にしたいときは防衛したいとき、つまり「ゴミ」をだいじに隠し持っていたいときなのです。

しばらく、このことを捧げ続けて、やっと「完璧ではない」と深い安心から言えるようになり、まるで祝福の合図のようにして、奇跡も受け取りました。

似たようなところで言うと「わたしは、間違っています、間違っていました、勘違いしていました」と認められることの、そう言えることの、絶大なる解放感。ほんとうの喜び。生きてる感じ。

このように認められて、はじめて、未知の可能性、采配を受け取れると言うのに、「正しい」と言い張りたい、「わたしは正しい、でも、苦しい、このままじゃだめだ」となっている、このようなことが、今は、不思議で仕方がないです。

 

 

 

(3)アイディンティティを手放す

「自分史を捨てる」。

「わたしはこれこれこうだから、こういう人生を歩んできたから、わたしはこういう人間だから、だからなんとかかんとか」という「自分史(自分の考え)」が自分を呪縛していたことに気づきました。

わたしの場合は「過去の栄光」というよりかは、どちらかというと「問題な過去(問題と自分が思えてならない)」だったので、

「それを手放すなんていいんですか?傲慢じゃないですか?罰が当たって、石投げられるのでは?」というような感じで、しばらく、「その場足踏み」をしていました。

すると「アイディンティティを手放しなさい」「価値のないアイディンティティに価値を与えてるのは自分である」「愛そのものであるということを否定していること自体が冒涜であり、傲慢である」というメッセージが、何度もやってきました。ちなみに、ここでの「メッセージ」は、「外側」からです。

 

 

 

(わたしは肉体であるという自己呪縛からの解放)

以上の三つは、去年全体を通しての経験でした。

その流れの中で、エンパスに関連すること(例えば、相手の方の感情を自分の体感覚としてキャッチする)というのも、長い間「誰にも相談できない問題(なぜか後ろめたい感じ)」という感じだったのですが、この期間のおかげで、問題視がなくなり、受け入れられるようになりました。自分が受け入れた途端、全く関係ない予期せぬところで「気づいたとき、もう無敵ですよ」と言われる、というようなこともありました。

一貫するのは、肉体との同一化で、これはこれからも引き続き続けていきますが、年末年始でさらにシフトした感じです。

いただくご相談で、例えばお金や肉体や時間ということについてだったり、浄化・癒し・ヒーリング・現実創造は、この肉体との同一視、時間枠を壊すということでもあるので、このことについても皆さんと深めていきたいなぁ、と、思っております。

そういえば、今年の年末年始は、はじめて(いや、はじめてじゃないな、小学生以来とかかな)、魔界がなかった、です。

やはり、自分が招き入れていた(自分が作った)、ということ、これに例外なし、ということを痛感しました。

外側に力を与えているのは(外側のそれが、目に見えようが見えなかろうが)、ほんとうに、自分でしかないですね。

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