自分でラベルを貼って、震え上がること

ゆっくりとのんびりとした気持ちのまま、ふと部屋の中を見渡してみました。

部屋の中にある、いろんなものに対して、わたしは「好き、大好き、お気に入り、わたしのもの」という愛着や判断や感情を、貼り付けてみていました。

これは、わたしのもの。これは、こういうもの。これの用途はこうで。これには、こんな物語があって・・・、という過去からのストーリーが、わたしの記憶から浮かび、そのわたしの記憶やストーリーを、それに対して、貼り付けてみている。

つまり、「自分だけの見方というラベル、過去からの連想」を貼ることによって、ありのままを見れなくなっている。

けれども、こんなふうに、ゆっくりと自分の思いを見ることをしない限り、わたしは咄嗟に「わかっている、知っている」と判断を下して、レッテルを貼ったままでいることになります。

 

 

このように「これは好き、素敵、素晴らしい、お気に入り」と思うということは、その真逆である「これは、嫌い、嫌だ、好ましくない」と思うことも同時に作るということです。

もちろんこれがいいとか悪いとかの話ではないです。自我の動きの話でもあります。

そして、たとえばですが、「誰かを否定しながら、わたしを肯定する」ということがあったとき、これがなんの意味もないことだし、これはそのまま「わたしを否定しながら、誰かを肯定する」ということにつながるというか、まったく同じことをしている、ということがよく感じられます。

自分の記憶、過去の連想から、自由であることに対して心を開いていきたい、自分の内側の自我のジャッジではないところを頼りにして、信頼して、経験していきたい、と思いました。

 

 

そして、これは、ものに対してだけでなく、人に対しても、出来事に対しても、そうだということです。「なにをどのように見るか?」というのは、外側の何かが基準となっているのではなくて、内側が基準となっています。

こんなことを思いながら、それがたとえほんの1ミリであったとしても、それがものに対してだったとしても、自分の思いの影を見つめ、光に捧げていきたいと、改めて思いました。

 

 

微かなイライラも、激怒も、同じこと。

微かなイライラも、激怒も、内観してたどっていけば、思い込みや自分だけの狭い価値観や判断が出てきて、さらには同じ信念(分離、欠乏の信念)が出てくるものです。

そして、この信念が、想念を左右し、それはたとえば「ひとりぼっちで孤独だ」とか「お金についての将来の心配や不安」や「わたしは幸せになれない」や「自分は劣っている、ダメな人間だ」や「同じ過ちを繰り返す」などの”まるでリアルのようなドラマ”を作っていたのです。

他の言い方をすると、たとえばですが、「自分で瓶にラベルを貼っておきながら、そのラベルに自分が震え上がってる。そして、この瓶のせいでわたしはこんな酷い目にあってる」と叫んでいるということです(笑)

 

 

なんというか。自分で瓶にラベルを貼っておきながら、そのラベルに自分が震え上がってる、みたいなことなのです。

この信念まで、たどっていくということは欠かせないことで、表面だけでなんとかしようとしても、外側に原因を置いたままなんとかしようとしても、なんともならないものです。

(なので「信念」といっても「その願いが信じ込むと思い込む」などの話ではありません)

「なぜ、そのように、思ったのか?」ということです。

このように、自分の思いの中を見つめると、高慢さだったり、偏った見方や価値観であったり、「どろどろしたもの」が出てくることはよくあることですが、そのようなものを毎日見て、ゆるしていくということが、呪縛から解放されるということでもあります。

「相手から呪縛をかけられた」という「外側(過去や誰か)に原因」の状態では、いつまで経っても、「外側に原因、外側に影響力」です。相手と自分を同時に十字架にかけていることに(という思いに)、自分は苦しんでいたのだし、これを解放する力は心の奥の奥にある、ということです。

 

 

自我同士がつながるということはあり得ません。自我はそもそもが分離が大前提なので「たったひとつ」とも「つながり」とも無縁ですが、自我ではない心は(スピリットは)たったひとつでつながっています。

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