先日、
(A)スピリチュアルジプシー(スピリチュアル迷子、占い・カウンセリングセミナー依存、ジプシーなど)
(B)目覚めの道を歩む、霊性の学びを深め続けるということ
この二つについての違いを書いてみた。
(A)は、欠乏感、不足感・・・など自己否定が大前提となっている・・
というか「そのように盲信していること自体に無自覚」だったり「そうなっていたり、なっていなかったり」したり、する、と書いた方がいいのかもしれない。
欠乏感、不足感というのは、例えば、
今の自分じゃダメだ、とか、
今のままじゃダメだ、とか、
自分には何かが足りない、とか、
できない自分はダメだから、できるようにならないと(もっとできるようにならないと)、とか、
自分はダメで、無力だから、なんとかして、いい人間にならないと、とか・・
よくあるのは、
「今のままでも満足しているんだけど、もっと良くなりたい」というもの。
これは、今のままで、本当に、満足しているのであれば、「もっと良くなりたい」とはならないので、やはり、こういうときも、不足感を隠し持っていたことを、認めることは大事だと思います。
「今の自分はダメで、間違っていて、無力だから、(幸せになる方法、癒される方法を)教えてほしい」というのは、一見謙虚に見えるのだけど、
このように、不足感や欠乏感がベースだと(そしてそれに無自覚、否認状態だと)、あるとき、
あるとき「こんなにがんばってるのに、いつまでたってもよくならないじゃないか」という不満が出てくる。
あるとき「もうがんばるのが疲れた」という愚痴が出てくる。
あるとき「なんか期待外れだ」「なんか退屈だ」と、漠然とした、不満が出てくる。
※どれもこれも「過去、自分がそうだった」という話を書いてます。
ここまで、自覚できたなら、
「不足感や欠乏感、自己否定の信念から、外側に、教えを求めたり、癒しを求めたりする」
というところから、くるっと、
「そうではなくて、こっち」
と、はっきりと、望むこと(祈ること)も、大事だと、最近よくおもいます。
エゴが学ばせたいことではなく、神様がわたしに思い出させたいことに、心を開いて、求めたい。
祈る、望むというのは、意図するとか、設定するとか、宣言するとか、アファメーションとかと、ほとんど似たような感じでもあるのですが・・
なんとなく、関係性とか豊かさとか具体的な体験・・といえば「祈りでしょう」という感覚がある。
「今の、この、自分の、フィールド、目の前の日常生活、関係性から、じわっと、確実に、体験を受け取っていく、そして、広がりを受け入れていく」みたいな、なんか、こういう感じでいうと「祈りでしょう」という感覚がある。なんでだろう?
与えるとき、受け取る
受け取るとき、与えている
自分が与えるものが全て自分に与えられる
・・この、いろんなところで見聞きしてきたはずの、このことを、
そして、奇跡講座で再会をしたこのことを、
本当に本当に、体験したい、実感したいし、その実感で、いつづけたい。どんなときも、この感じで、いつづけたい。
そのようにして、神様がわたしに思い出させたいことを、人との関わりの中で、日常生活の中で、思い出したい。
祈って、ゆるす。ゆるすとは、何もしないということ。