「〜するのは悪いこと」について。
これは形態・形・言動・行いなどの話ではなくて、心のなかの、お話です。
形態・形・言動・行いでの話をしているわけではないです。ここをすっ飛ばさないことは重要です。
そして「いい・悪い」と物事を二つに分けて裁く、ジャッジの話でもないので、ジャッジメントはいったんわきにおきます。でないと「悪くない、ということは、良いってこと!?」となると、これまた、奇妙なことになります。
心のなかの、話です。
たとえば、「正解」を先に知っておいて、その正解を自分に押し付けるようにして、
・人のせいにするのは悪いこと
・不満を持つのは悪いこと
・愚痴、悪口をいうのは悪いこと
・ジャッジするのは悪いこと
・承認欲求は悪いこと
・人を見下すのは悪いこと
・依存は悪いこと、共依存は恥ずかしいこと
・欲望・願望を持つのは、悪いこと
・・・と、自分をジャッジしている場合。
しかも、それを自分でも気づかなくなってる状態、つまり、抑圧・否認している状態、ということもあるのですが、
「自分が自分に」「自分の心のなかの信念・価値観・思い込み」などを、ただ、ただ、みていく、出てくるままにするのが、内観です。
裁くことなく、ただ、見ること、というのは、とても大切です。
内観のときなどに、相手のことを分析したり、自分の幼少期のことばかり分析したり(これも親や環境や運や神や過去という外側に原因になっているのであれば無意味です)するのは、内観ではありません。
自分をジャッジして、いい子ちゃんのふり、できてるふり、平静を装う、というのは、時間がかかるだけです。時間がかかるだけなので、悪いわけでもないですが、「正しさ」を自分に押し付けて、自分のほんとうの思いを、蔑ろにする、という自分いじめは、自分が苦しくなります。
まず最初に大事なのは、たとえば、「人のせい」を例に挙げていうと、
「人のせいにしていたことに気づく」こと、です。
ここでは「人のせいにする」のは、そのまま「自分の罪悪感の投影」なので、まずは「ああ、わたしは、人のせいにしていた」と気づくことが大切なのです。
意外と、「人のせいになんかしてないですけど」ということも、よくあることなのです。
「相手が悪い」といいたいとき、というのは、自分が悪いと思い込んでいます。
相手を否定しているときは、自分を否定しているときです。自分を否定しているから、相手を否定したくなる・・・という感じです。
このことに、実際当てはめようとすると、意外と無意識的に逃げてしまったり、例外を作ったりすることはよくあることなので、まずは「ただ」気づくことが大切なのです。
そして、ここで、正当化して終わりにするのは、苦しみが続くことになる、とも言えますが、とても、もったいないことなのです。
「人のせいにしていた、相手が悪いと思っていた」と、外側に原因を見ていたけれども、
内側に原因があるらしい、と、まず、思い出す、という感じです。
内側に原因がある、というのは、「自分の心の中が、まるで虫歯だらけのような、ばい菌だらけのような感じ」というわけではなくて、
わたしは心の中で、何か勘違いを信じ込んでいて、その勘違いを手放すことで、奇跡(神の采配)を受け取ることもできる、ということです。
この「勘違い」というのは、たとえば「わたしは価値がない存在である」などです。
そして、雲をかき分けていくうちに、その奥にある光を受け取れます。
なんというか、スピリチュアルや心、潜在意識など、情報は色々知っていて、
「人のせいにしてはいけないんですよね!わかってます!」「本当は神の子なんですよね!」と、正解で覆い被せようとすることもあるようなのですが、そうしないことが大事なのです。
丁寧に、内側を見つめていくこと、どんなドロドロでも、いったん全て吐き出すこと(紙に書き出すのはおすすめです)、それが、欠かせないステップなのです。
あとは、なにか、落ち込むようなことがあったときに、それを自分で納得させようとしたり、紛らわしたり、正当化したりするのではなく、
なぜ落ち込んだのかな?と問いかけることが大事です。
落ち込むには、落ち込むだけの理由(思考、価値観、信念)があって、これをみない限り、その根っこを見て、手放さない限り、形を変えて繰り返されます。
なぜなら、内側の(思考、価値観、信念)を、外側にみて、落ち込むという感情が引き起こされているからです。
特に「依存、共依存」というのは、本当に強烈な抵抗があるようで、この数ヶ月で「自分もそうかも」という方も何人もいらっしゃって、
「自分だけは違うといいたかった」
「依存、共依存の人たちを見下していた」
などのお声もいただいておりました。
そして、これはそのまま、自分が自分を見下している、というだけのことです。
自分が自分を見るように、自分は誰かのことを見ます。(これが鏡)
ここでは、依存、というのも、自分の心と向き合う、自分の盲点に気づく、受け入れるために、書きました。
深刻でないほど(深刻視していないほど)、レッテルや決めつけ、ジャッジが強くないほど、「まぁ、調べてみようかな」と思えるものだと思います。
依存が悪いとかじゃなくて、もっと自分をゆるして、愛していこうよ、というような感じで、書いてました。
いいとか、悪い、とかじゃなくて。
自分が誰かを責めたいとき。
自分が自分を責めてることに気づけるときで。
ということは、自分の中にあった罪悪感・自己否定のセルフイメージ・自我のおそれの価値観信念を手放せるときです。
「反省ではない」とずっと言い続けていましたが、開き直りを推奨しているわけではありませんよ笑
反省(自分を責めて、罪悪感を持ちながら、歯を食いしばりながら頑張って、悔い改める、イメージ)が終着点ではない、ということを言いたかっただけで、
普通に、日常生活、人間関係の中で、謝ることや、学びを得ることは大事ですよ笑
でも、誰かに謝ることも、出来事から学ぶことも
「わたしがダメな、悪い人間だ」というような自責・自己否定の罪悪感が動機ではなく、
「相手から怒られるのが怖い、もう裁かないで、ごめんなさいごめんなさい」という恐怖心(あるいは疑いや、不信感や、駆け引きなど)が動機でもなく、
愛からのもの、もっとあたたかいもの、という感じで、経験できます。
言動レベル、形レベルではなく、心の中です。
なので、念のため書きますが、ポイ捨て禁止はポイ捨て禁止です、こういうのは普通にしときます笑
でも逆に「どうしたらいいかな?転職した方がいいかな?しない方がいいかな?」とか「ああ言えばよかったかな?こう言えばよかったかな?」とかじゃなくて、心の中を見ることが大事なのです。
ここでまた「前提が大事なんですよね」と、綺麗事の前提で覆い隠すのではなく、不要な信念を見つけて手放すことで、奇跡を受け取る機会とすることができるのです。
そして、心の中、というのは、「自分は相手の心は読める、わかる」と非常に多くの方はそう思ってるものですが、自分の心の中はさっぱり、なのであれば、なんの意味もないのです。
自分を知るために、相手がいます。自分は愛そのものだと知るために、相手がいてくれてるのです。