浄化はエゴの価値判断信念解釈の訂正です。浄化があり、そして、奇跡、です。
なので、エゴの思考パターンを見つけるとき、というのが、奇跡チャンスです。
これは、どういうことかというと「心に力がある」ということを知識的に、情報的に、「知ってる、聞いたことある」ということは多いと思います。
奇跡を求めるときは、
知識的に、情報的に、「心に力がある」ということを、知っていたとしても、それを、まったく適用できていない、ということ、
「心に力があるなんて、思いたくもない」と思っていること、に、まずは、気づく、ということでもあります。
わたしも、このことに直面したことがあったけど、今思えば、本当に、神聖なとき、祝福のとき、だったと思う。
本来の自分自身に戻るとか、一致するとか、自分軸とか。
真の自己との一致とか。
こういうのって、もう、一生をかけてのものだと、受け入れるということが、思った以上に重要だというメッセージを、最近、至るところから受け取っています。
内なる感覚としても受け取るのだけど、出会ういろんな人、何かに、このメッセージが散りばめられている感じ。
すごく、今、大事なことなんだと思う。
「現時点のわたしは最悪で、頑張って、あの人が言ってる感じになって、努力して自分軸になれるようにして、そうなったら、幸せになれる(そうなったら、もう頑張らなくていい)」
↑これは、明らかに、「エゴから差し出される計画書」なのだけど。
「今、このような思考回路を持っているかも」という場合で、
「この思考回路を手放すつもりがない(=手放せない、どうやって手放したらいいかわからないも同じ意味です)」
というのは、この「今」が、「今」、過去や未来にもコピーされていく、みたいな感じです。
本当は、過去も未来も妄想なので、なんというか、「コピーされていくなんて怖い」と思う必要もないのですが。
しかし「今、このような思考回路を持っている」という場合で、
「この思考回路を持ち続けたくありません、本気で手放したいです(マジで)」という場合。
そして、さらに「この思考回路を持ち続けることにしたのは、わたしである」と受け入れてもいい、と、思える場合。
そしたら「今」手放すことができます。
すると、その、エゴの「頑張ったら、いつか幸せになる(ずっと今のままじゃだめ状態)」という思考パターンから心が解放された「今」というのが、
自然と、過去や未来にも広がっています。(なんだったら、その証というか、奇跡の体験というか、そういう体験も受け取ると思います)
そのようにして「手放したい」と思ったとしても、
「今の自分はダメ・このままではダメだから(欠乏感)、頑張って、なんとかして、そうしたら、幸せになれる」という思考回路が出てくることは、めずらしくありません。
これが何度も出てくるけど、本気で心を解放したいとか、
1人じゃ祈るのも内観するのも難しくなっているとか、
抵抗というか、引っ張られる感じが、どうしても強く感じてしまう、ということもあるでしょう。
そのような場合、わたしは、ケチケチせず、「誰か」に、じゃんじゃん、頼ってました。
「誰か」というのは、その時々でお世話になっていた、師、先生(霊的指導者みたいな方)、一緒に祈ってくれる方、一緒に心を見てくれる方、カウンセラー、ヒーラー・セラピストなど、いわゆる「プロ」の方です。(「プロ」っていうのも、なんか変な感じですが)
この、心というか、想念というか、霊的な部分というか、そういう部分を、ケチるのは、一番、もったいないし、効率悪いところだと思います。笑
物質的なものをケチるというか、節約するというか、それは、まだ、いいかもしれませんが・・。
例えばですが、一番貧乏になるお金の使い方は、
劣等感を隠すため=よく見せるため、劣等感を隠し優越感を感じるため、見栄を張るために、ものを買ったり、身体をなんとかしようとしたりするお金の使い方です。
※ですから、例えばですけど、「高級腕時計」みたいなものでも、その人がそれを劣等感を隠して自分を大きく見せるために買っているのか、他の理由で買っているのか、というのは、本人にしかわからないし、自分の投影じゃないかとか自己判断すらできないわけですから、人のこと診断してる場合じゃないですよ。笑。自分の心はどうか、というところだけが大事です。笑
恐れから身を守りたくてお金を使う、というのも、まぁまぁな出費になるかもしれませんが、この方がまだ、なんか、「守護が入る隙間も空けている感じ」がします。
「劣等感を隠して優越感を感じるため」とか「勝つため」は、なんというか、例えばですが、「悪魔歓迎、天使立ち入り禁止」状態になる感じがあります。
心にすべての力がある。
想念がこの世界にも映し出されている。
ここをケチってる場合じゃないよなって、つくづく、思います。
今までは、そう思っていたとしても、それを”書かなかったし、言わなかった”。
そして、この、今までブレーキがかかっていたことが外されていっている。
この形に残らない、獲得するとか、所有するためとか、欠乏を埋めるためとか、物質的なことをなんとかするためじゃない、
心の豊かさ、霊的な喜びのため、目に見えない、形に残らないところに、お金を使うこと。
例えば、それは、
心やスピリチュアルや祈り・・ということだけを指しているわけじゃなくて、
「ふと、お花を部屋に飾りたくなって、お花屋さんにいって、花束を作ってもらった。花束に、しかも自分のためだけの花束に、こんなお金を使うのは、ちょっと勇気がいったけど。すぐ枯れちゃうし、とか思ったけど。お部屋にお花を飾りたくなった自分の思いを大事にしたいと思った」
ということかもしれない。
「ただただ、心の感覚に従って」ということかもしれないし。
「心が苦しくて、一人で内観するのがつらくなっているというとき、この心を解放するために、誰かに助けてほしくて」ということかもしれない。
心や想念のためにお金を、「思い切って」使う、ということは、その時点で、
「わたしはお金(物質)じゃなくて、心に、スピリットに、想念に、力があることを認めています」
ということになる。それと、自己一致するのは、もっと、ものすごいこと。
そんな、自分を、自分で、認めてあげたい。
「ジプシー」とか言わずに、自分は、本当は、心に力があることを知っているのだということ、そして、それを思い出したいし、一致していきたいのだということを、ただ、認めてあげたい。