前の記事と似た感じですが。
自責ではなく、自愛を選ぶということも、
まずは、
自分を責めていること、
自分をいじめていること、
自分に対して厳しくジャッジし続けてきたこと、
自分に対して厳しい禁止令を出し続けてきたこと、
・・・に「はっきりくっきりと気づく」ことが大事かもしれません。
「はっきりくっきりと気づく」ということは、「もうやめたい」あるいは「もうやめます」という心の状態にもなる、ということです。
大きな解放が起きて、そのまま思考が静まって、深い癒しを受け取る、ということも、あるかもしれません。
「なんとかしよう、解決しよう」に書いたことと繋がりますが、
「自分を愛そう、自分を愛そう」と思って、
「自分を愛するために、あれをしよう、これをしよう」というような場合は、エゴの罠にハマってることも、あるかもしれません。
行動に起こすことは大事ですが、行動が心を変えるわけではありません。
「内側が先、外側があと」に当てはめると、心が行動に現れる、ということで、だから行動も大事、ということです。
けれども、「行動・やること」に偏るときというのは、心ではなく肉体に力を見ているときかもしれません。
とはいえ、エゴのぐるぐる巻きの状態の中では、
いつもいつも迷ったり、勇気が出なかったり、抵抗が強く出たりして、ずっと「動けない」まま、というようなこともあるかもしれません。
(1)祈りながら、思い切って行動に移すのか、
(2)迷ったり、抵抗が強く出たり、動くことがこわい、勇気が出ない・・・という自分もゆるすのか。
どちらが、ほんとうに、自分が望むことなのか。
それは、自分で選ぶこと、自分で選べることで、正解はありません、正解は一人ひとり、その時々で、違うかもしれません。
意外と、自分を責めていたことに「はっきりくっきりと気づく、気づき続ける」ことが大事で、
自分を愛そうとするよりも、すでに与えられている愛を受け取ること、愛の中にいることを感じること、受け入れることです。
それで、昨日、自分を責めていたことに気づいて、今日もまた自分を責めていたことに気づいた、というようなとき、
それで自分を責める方向に突っ走っていくのではなくて(笑)
エゴを選んだ自分を責めるのではなく、軽やかに爽やかに選び間違えたことを認めて、選び直していきたい・・・それの練習という感じです。
自分を責める、ということは、その反対側の自分、つまり「責められる自分(罪悪感を感じている自分)」もいるということで、
この罪悪感が強すぎる場合(投影を認めたくない場合など)は、
なかなか「選び間違えたことを軽やかに爽やかに認める」ということが難しく感じられる場合もあるかも、しれませんが、
続けていくと、だんだんと、確実に、癒えてきて、軽やかに自由になってきます。