祈りとは・・・
色々な説明の仕方もできると思いますし、丁寧に書こうと思ったら長くなってしまいそうなので、
超ざっくり、そして、ある角度からの書き方をすると、
(1)不幸を具現化しようとする想念を奇跡に入れ替えてもらえるよう、大いなる存在の象徴(=神様、天使、マリア様、観音様、守護霊様、ハイヤーセルフ、等々)に捧げて委ねる、
または、
(2)大いなる存在と一つであることに感謝する
ということもできます。
(1)の祈りによって、奇跡体験、具体的な愛の体験、関係性を、体験として、それとわかるようにして、自分自身が受け取ることになります。
わたしは、この奇跡を、成就、願望成就、具現化、と同じであると認識していますが、「願望」というと、これまた真の願望と偽の願望(本当は自分は願っていなかったこと)と、ある感じです。
そして、(1)の祈りためには、「不幸を具現化しようとする想念、無を求める想念(=エゴの想念)」に、まずは気づいている必要があります。
自分の中に浮かんできた想念、内的に経験している想念、心の奥に押し込めていた想念こそが、奇跡、癒しの道具になる、ということだからです。
そして、この、「不幸を具現化しようとする想念、無を求める想念(=エゴの想念)」に気づいていない、無自覚状態の場合や、気づくことを拒否している場合などは、
(2)の祈りも、真にできない・・・となります。
「真に」と、わざわざ、太字にしたのは、「できてるふり」はできるかもしれない、ということも、意外とよくあることだからです。
なので、最初のうちは(2)の祈りがわからない、できない、となっていて、順調、という感じです。
(1)の祈りを続けていくと、自然と、(2)の祈りだったり、あるいは、ただただ無条件に全てに感謝・・・みたいな感じが、自然と、心の奥から溢れ出てきたり、します。
(1)と(2)は行ったり来たりするものです(螺旋階段的)
なので、一度、(2)を経験したからといって、終わり、ということでもないし、そのまま肉体が消えて大霊となりました・・・、ということでもありません(笑)
行ったり来たりしながら、(2)が持続・保持できるようになってくるし、(1)から(2)に選び直す、ということも、軽やかにできるようになってきます。
深刻視がどんどん薄くなってくるので、内観や祈りの真の実践者などは、
実際会ってみると、楽しげだったり、あたたかな感じだったり、優しい静かなそっとした感じだったり、することが、ほとんどです。
わたしの個人的な印象でいうと、静けさや鷹揚さやピュアさを含みつつの、楽しげな人が多い感じがしています。
ああ、ユーモアがある、ともいうのかもしれません。
あれ。話が逸れたような。
タイトルはなんだったかというと「神様 助けてください」でしたね。
よく、祈りについて「どのようにして祈るのか?」というご質問いただきますので、↑に書いていみましたが、
(1)では、内観・・・エゴに気づくこと、エゴとの同一化に気づくこと、自覚すること、そして、手放したい、または、奇跡を受け取りたい、または、癒されたいと、望むことが必要となります。
(2)は、「わからない」「できない」というお声も、たくさんいただいております。※ここで「今はわからないしできないけど、感謝できるようになりたい」という微かにでもそういった気持ちがあるのであれば、上にも書きましたが、順調、ハナマルです。
それで、(2)はもちろんのこと、(1)も「無理、わからない、できない」という時期も、そのような場合も、あるのではないかと、思うのです。
わたしは、「(1)も(2)も、わからないし、できないし、無理だ」という時期を、とても長く過ごした経験がありました。
そのようなときというのは、とても苦しいものです。
とても苦しすぎて、本当に、解放されたいと心から思っていましたし、癒しを欲していました。
自分ではどうにもできなかったし、今思えば人からの助けも愛も受け取れなかったので、
ただただ「神様 助けてください」と祈り続けていました。
「神様 助けてください」
今思えば、これでよかったです。
わたしは、あまりにも長い間、何度も何度も「神様 助けてください」と祈り続けました。
よく、布団にくるまりながら。
今思えば、これで完璧だったのです。
「神様 助けてください」
このように、わたしが、無条件の愛、大いなる存在の象徴である「神様」に、助けを求めて、
神様は、なんていうと思いますか?
わたし「神様 助けてください」
神様「もちろん。喜んで」
としか、言わないでしょうし、完璧な愛であり全知全能であり時空をも超越した神様は一瞬で助けてくれる、愛・癒し・奇跡を一瞬で与えてくれる、ということが、今なら、よくわかるのです。
一瞬で、というか、もう、今です、という感じです。
わたしは、とても苦しんでいたとき、このことに気づかなかったのです。
苦しいですから、相手(例えばここでは神様、あるときは家族や友人知人など)のことなど、真に考える、ということが、できなかったのです。
相手のことを真に考える、と書きましたが、当時は「相手のことを考えすぎて、こんなに辛いんだ」と思っていました。
けれども、相手のことを考えすぎて辛くなる時、というのは、投影して、決めつけて、自己完結して、ということをしていただけだったのです。
真に相手のことを考えると、ただ、無限に愛されていることがわかります。
相手(例えば神様)は、わたしが「助けてください」と求めるとき、いつだって、「もちろん、喜んで」と、
答え続けてくれていたのです。
罪は存在せず、無罪性だけがあることを、答え続けてくれていたのです。
与えられていたけれども、受け取れてなかっただけ、だったのです。