偽の願望について(こわくないし、悲しくない話だよ)

真の願望、偽の願望とある・・・

と書くと、多くの方が「もし、今願っていることが、偽の願望で、それが叶わなかったらどうしよう」という気持ちになることが、あるようです。

罪悪感を感じたり、おそれを感じたり、受け入れたくないような気持ちになったり、することもあるようです。

わたしにもありました。

 

 

それで。

じゃあ、真の願望と、偽の願望とあったとき。

というか、自分のこの願いが、真の願望なのか、偽の願望なのか、わからないとき。

どのように考えればいいのか?

どのように心を持てばいいのか?

 

 

例えば。

「めんどくさいから、歯を磨きたくない」と思うことがあったとしましょう。

「歯を磨きたくない!このままベッドに沈んで、このまま眠りたい!(それでも虫歯にはならないでほしい)」というようなとき(笑)

「歯を磨かず、このまま眠って、虫歯にはならないこと」という、例えば、ある意味願望というか、欲求があったとしましょう。

「歯を磨かず、このまま眠って、虫歯にはならないこと」←これは、真の願望と言えそうでしょうか?

まぁ、なんというか、もしそれがそうなれば、いいかもしれませんが、

時間があり、空間があり、人間である以上、

「歯を磨かず、このまま眠って、虫歯にはならないこと」

というのは、不可能というか、まぁ、一晩くらいだったらなんとかなるかもしれませんが、

そのような超人的な人間になる、というようなことは、

ヒマラヤ聖者にでもならない限り、無理かもしれません。

ヒマラヤ聖者になりたいのでしょうか?

このようなとき、本当に本心が、魂が、求めているのは、なんなのでしょうか・・・。

 

 

例えば「〇〇くんと結婚したい」と思うことがあったとしましょう。

でも、〇〇くんは、わたしとは、結婚したいかどうか、わからない、というとき。

そりゃ、〇〇くんと結婚できたら、いいかもしれません。

 

 

けれども、〇〇くんは、「わたしが思っているような人」じゃない可能性もあります。デートしているときはよかったけれども、一緒に暮らしてみたら・・・ということは、意外とよくあることのようです。

あるいは「〇〇くんとの相性はとてもいい」としても、どちらかの家族や親戚の中に、大反対をする人がいて、穏やかではない関係を経験する可能性はゼロではありません。

あるいは「〇〇くんとみんなに祝福されて結婚したはいいけれども、一緒に暮らしはじめてしばらくして、自分が嫌だと思うようになった」ということもあるかもしれませんし、

子供がほしいと思っていたのに、なかなかできないという葛藤に直面することだって、あるかもしれません。

これは、脅しているわけではなくて、諦めるよう促したいわけでもなくて、

「〇〇くんと結婚すること」=真の願望=真の願望であるのであれば、全体にとっての幸せにつながっているということ、永続的な幸福

である必要があります。

真の願望というのは、自分にとってもみんなにとっても世界にとっても、幸せ、完璧な幸福につながるものというか、そのプロセスの一部であるという、神の計画であるということができます。

 

 

一瞬だけ、幸せで、3ヶ月後には雲行きが怪しくなり、4年後には破壊する・・・という筋書きでは、全く意味がありませんし、どう考えても、これは神の計画とは呼べません。

神の計画とは完璧な愛、完璧な幸せ、完全なる美を伴うものであるものだからです。

 

 

なので、真の願望というのは、

のび太くんと結婚するのか、カツオくんと結婚するのか、といったような、その領域(個人、個体、肉体、物理領域)の話では、実はないのです。これは、もう、そういうものです。

あ、だからと言って、「のび太くんと結婚したい」と願うことや執着することが悪いわけでも、邪悪なわけでもないですし、抑圧や禁止すればいい、心をコントロールすればいいという話でもありません。抑圧・禁止・コントロールでは逆に苦しくなるというか、逆効果だと思います。

 

 

それでじゃあ、どの領域の話なのか?というと、さっきの、

そのような超人的な人間になる、というようなことは、

ヒマラヤ聖者にでもならない限り、無理かもしれません。

ヒマラヤ聖者になりたいのでしょうか?

このようなとき、本当に本心が、魂が、求めているのは、なんなのでしょうか・・・。

と、関連があるのです。

この記事を読んでる方は、もちろん「ヒマラヤ聖者になりたいわけではない」という方が、ほとんどでしょう。

けれども、ここに、ヒントがあるのです。(念のため書きますが、ヒマラヤ聖者になるよう示唆しているとかではありません笑)

 

 

ですので、願望成就、という点でお話しするのであれば、まず、取り組みたいのが、

今の自分の内側に生じている、心の苦しみ、痛み、悲しみ、恐れ、罪悪感についての癒し、解放なのです。

なぜなら、その今の自分の内側の奥の奥、心の奥の奥に、

成就のソース、すべての力、神性があるから、です。つまり、方向性は、こっちだ、ということです。

そしてこの、成就のソース、すべての力、神性は、癒し、解放の源でもあります。

この「力」は、すべての人々の心の中、そして、関係性の絆に、本来はすでに存在しているものですが、

それを、認識できなくなっている場合は、認識できなくなっているということをまずは自覚する必要があります。

認識できなくなっているという自覚ができたとき、自然と心から認識できるようになりたいと求めるようになり、それは必ず成就されます。

この内側における成就を、この具象世界に反映として受け取る、ということです。

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