「(自分以外の誰かから)呪いをかける、かけられる」という話は、それについての知識がない場合や知識を誤解している場合などは、恐れを煽る話に聞こえたり、作者錯覚を煽る話になったり、することがあるかもしれない。
そういう意図でこの記事を書いているわけではもちろんないのだけれど、「本当の幸せを実現し続ける」ということは、単に、「この世界で起きていることで、悲しいことや恐ろしいことを無視すれば良い」という話でもありません、それはただの抑圧で、抑圧されるものは投影されます。
実際に「呪いをかけたり、かけられたりすることが可能である」という中を生きている場合は、確かに「呪い」というものは「ある」し、極端な話「呪殺」というものも「ある」。
このことについては、否定していません。
この世界で、殺人や戦争が「実際問題ある」ように、「呪い」というものも「ある」。
「呪殺」という場合では、相手が素人の場合もあれば「呪術師同士の戦い」という場合もあって、
より優れている方は「闘いに勝つ」となりますが、負けてしまった方は命を落とすというものです。
アニメの世界のような話で、実際にある話です。
費用はかかりまっせ〜!
さらに「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」という人たちも、存在します。
これは単に、顕在意識や潜在意識で「私は呪いを知らない、呪いなんて信じていない」と思い込んでいる人は呪いにかからないとか、そういう話ではないです。
「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない」という人たちとは、どういう人たちなのでしょうか。
「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」とは知らずに、呪詛をかけるということをした場合には、かけた呪いは、そのままかけた本人に返ってきます(ブーメラン)
ちなみに「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」である場合、対策などは、一切不要、ということになります。
「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない」という人たちとは、どういう人たちなのでしょうか。
というか「優れた呪術師」は、相手が「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」ということは見破ることができないものなのでしょうか?(答えは、見破ることはできない、です)
これは、どういうことでしょうか。
詳しく、みていってみましょう。
「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」というのは、ただ単に、顕在意識や潜在意識で「私は呪いを知らない、呪いなんて信じていない」と思い込んでいる人ということではない、と、先ほど書きました。
「呪いをかけたり、かけられたりする」場合というのは、例えば「呪いをかけたり、かけられたりすることが可能である」「私とはこの個人(個別な肉体)であり、相手も個人(個別な肉体)であり、不自由で制限があることが可能な存在である」等々の信念があることを示しています。
こういった、さまざまな信念を「エゴの信念、エゴの概念」と、ここでは呼んでいます。
「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」というのは、このようなエゴの信念・想念がない、言い換えると、「呪いを受け取る、データ、受信口」みたいなものがないので、
相手がどんなに優れた呪術師であろうと、どんな呪詛であろうと、受信口がないので、対策を何もしていなくても、「呪い返しだ!」とかいうよりも、そもそも「受け取れない」ということになります。
配達した荷物が、そのまま本人のもとに返ってくる・・・前の記事でカルマの法則について書きましたが、
そのカルマのブーメランを、愛により、自然法則により返されます。
「優れた呪術師」は相手が「どんなに優れた呪術師でも呪いをかけることができない人」ということは見破ることができないものなのでしょうか?(答えは、見破ることはできない、です)、と書きましたが、
「優れた呪術師」は、当然ですが呪術に関連する信念・想念を信じている・受け入れている必要があります。
今から書くことは、誰にだって言えることですが、
この相対世界の信念・想念(これをエゴの信念・想念と呼んでいるだけなのですが)との同一化により、意識は狭まります。
同一化からの解放により、意識は広がります。(これがいわゆる次元上昇)
そして、相対世界の信念・想念がある場合は、投影をしていますので、
(相手がそんなことなくても)「相手もきっとそうだろう」という無意識の判断が下ります。
それにより、単純に言えば「自分と同じレイヤーにいる、自分より優れた人か、劣った人」で世界が構成されているように見えるものです。このような自覚はない場合がほとんどかもしれません。
それで、
エゴの概念が浄化されている状態の人
「呪いを受け取る、データ、受信口」みたいなものがない人
・・・などは、
必然的に、世界平和とか、宇宙調和とか、全体の幸福を、心から望むようになるものです。もう、それしかないと、自然と心からわかるというのか、悟るというのか、そういう感じになると思いますというか、なります。
それしかない、くらいの感じです。
闘いを否定したり、天罰を下そうとしたり、仕返しをしてやろうとしたり、試練を与えて学ばせようとしたり、見せしめのためにというような・・・そのような意図などではなくて
敵などは存在しておらず、闘いなどは不自然であり不可能であり、
ただただ、自分たちの心の声、純粋な感覚、神聖性を生きることが、わたしたちの自然な本性であり、自然なことなので、
それを、望み続けています。
なので、もし、この記事を読んでいて「(他者からの)呪い、呪縛、念」みたいなものがこわい、という人が、もしいらっしゃったら、
もちろん、お札や天然石や浄化グッズなどを買うこと、風水や占いや吉方位旅行や食事療法や鍼治療などに頼ることなども、全く否定はしませんし、補助としての助けになるということは大いにありますし、というか一番大事なものを忘れなければ、本人にとってとてもいい方法となることというのはたくさんあると思いますし、
でも、ずっとそれを繰り返している感じがして、根本的解決につながってない感じがするのであれば、
自分の中に浮かんでくるエゴの想念にまずは気づいて、
「これはわたしのものじゃない」ことを思い出して、
世界平和とか、宇宙調和とか、全体の幸福・・・この言葉がなんかしっくりこないのであれば、全体にとっての最高最善でもいいですが、そういったことを、わたしは望む、ということを、繰り返していくと、そして、大いなる存在による愛の奇跡を心から求めると、
おそれは奇跡に入れ替わり、体験として受け取れます。
これが、完璧な呪い避け、というか「愛以外受け取れない」の状態です。