「見捨てられた」と思ったとき

大切な人との関係性、新しい出会い、復縁したい、特定の誰かと両思いになりたい、執着があって苦しい・・・

・・・そういった恋愛や結婚についてのご相談をいただくとき。

「もうこのようなことで、悩みたくない、つらい思いをしたくない、大切な人との関係を幸せに築きたい」

と心から思うのであれば、内観していくことはとても大切なことです。

 

 

けれども、その悩み、苦しみ、痛みが、強ければ強いほど、

心の中を見てみることが、つらい時期を経過することになる、ということは、よくあることです。

自分が自分の心の中を見てみて、つらくなるのはなぜかというと、自分が自分を責めているから。

誰かのことも責めているかもしれないけれど、他責とは、自責の投影・・・でしたね。

だから、絶対に、責めない、無条件の愛の存在と一緒に見ることが大事なのです。

 

 

それで、内観していると、過去の関係性が思い出されたり、

蓋をしてみないようにしていた「愛しているはずの人に対する怒りや恨みや憎しみ」が出てくることがあります。

その中で、

わたしは愛する人に大切にされなかった

わたしは愛する人に無視された

わたしは愛する人に蔑ろにされた

わたしは愛する人に裏切られた

わたしは愛する人に見捨てられた

わたしのことをいちばんに見つめて、いちばんに愛してほしかった

という気持ちが出てくることがあります。

これは、とても、苦痛を伴う感情かもしれません。あるいは、虚無感や無力感や諦めのようなものと共に浮かんでくるかも、しれません。

 

 

そのとき、一体何が起こっているのか?

「不幸である、苦痛である、ということは、なにかが間違っている」

ということでした。

ひっくり返して言えば、わたしたちというのは、

本来、幸せであるもの、そういうもの、

なのです。

自然に、楽にしていれば、自然と、幸せであって、その幸せが深まり、広がっていくもの、なのです。これが自然な状態。

けれども、不幸である、苦痛である、不運である、不満足である、何かが欠けている感じがする

・・・というようなときは、なにかが、間違っているのです。

それも「この世の中がおかしい」とか「うちの両親がおかしかった」とか「神様の計算ミス」とかではなくて、

わたしが、なにか、間違っている

のです。

 

 

なにについて、間違っていたのでしょう?

そう考えたときも、また、「あしあと」(前回の記事で紹介した詩)が思い浮かぶのです。

「あしあと」

「なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません」と、「わたし」が「主」に尋ねたとき、「主」は、

「わたしの大切な子よ。あなたは、わたしを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」

と答えます。

 

 

いつだって、苦しいとき、というのは、わたしが何かを間違っている、勘違いをしているものです。

そして、その「間違った、勘違いした自分だけの解釈・見方(例:わたしは捨てられた)」について、自分は正しいと信じ込んでいます。

そしてますます、苦しくなり、悩み、心が乱されます。

けれども、その誤解が解けるとき、というのは、「ああ、間違っていて、良かった」という、たったひとつの答えを、自分が受け入れたときなのです。

そういうものなのです。

 

 

だから「わたしは見捨てられた」という自分の間違った解釈・見方を前提にして、

「彼はわたしを見捨てたけれども、わたしの努力によって、彼はわたしの元に戻ってきた。あの頃のことを謝罪して、今ではとても愛してくれるようになった」

というストーリーを描こうとしているのであれば、苦しみは続くものです。

けれども、その、そもそもの前提にある間違った信念「わたしは見捨てられた」「わたしは愛される価値がない」ということについて、

「自分が間違っていたい、勘違いであってほしい、もっと他の見方で見れるようになりたい」と望むのであれば、

その間違った、勘違いした、信念は、あまりにも優しく、洗い流され、愛だけが残ります。その愛は、必ず、五感で経験できるこの世界での体験として、受け取ることになります。

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