依存と自立独立の表裏一体

「恋愛結婚系の問題、悩み、願い、執着」というところをテーマにする、というところで、

欠かせないのは「依存関係」「依存」を直視すること。

 

 

というのも、わたしたちは、本当は愛そのもの、豊かさそのもの、なので、

愛そのものであるわたしなのに、例えば、パートナーとの関係がうまくいかないとか、素敵な人と出会えない、ということは、

「わたしじゃない何かをわたしだと信じている」ということになります。

その「わたしじゃない何か」というのがエゴで、エゴが築く関係性というのが、依存関係で、他の言い方をするならば、

中毒的な関係、傷つけ合う関係、特別な関係、罪悪感のなすりつけあい・・・です。

 

 

ここで、「見るからに依存的」な人だけが「依存」というわけではない、ということ。

例えば、「自分は自立している、周りからも自立していると言われている」とか、あるいは、「社会的に地位があり、認められていて、自他ともに自立していると思っている」という場合でも、

「依存」というエゴの罠の中にいる、ということは、よくあることなのです。

 

 

自立と依存は、表裏一体なのです。

依存を禁止して、親や社会や世界を反面教師にして、自立に偏ろう、独立しよう、というとき、

必ず、その「反面教師にした相手」を軸にすることになります。

この、自分以外の何かを軸にすることが、他人軸です。

このような場合、確かに「自分も、周りも、社会も、認めるほどの地位や功績」みたいなものを持っている、ということはあると思いますが、

恋愛や結婚、パートナーとの関係性、あるいは、どこか(経済、健康、霊障、その他)で不具合があるのであれば、

「依存と自立」というエゴの中にハマっているのかもしれない、と、立ち止まってみることは、

そのエゴの中から抜け出る第一歩になります。

 

 

このように、依存と自立、という表裏一体の中の、自立に偏っている場合、というのは、

神ではなく、自分が神、となっていたりすることがあります。

自分が神、自分が神になりたい。

自分が優っていたい、劣っていたくない。

だから、優っている自分、自立している自分、「デキる人間」である自分を、証明するために、

必ず、外側に「ダメな人、劣った人、バカな人、依存的な人、足を引っ張ってくる人」、迷惑な人、退屈な人、とんでもない人・・・等々を作り続けます。これが投影です。

これが「エゴの作ったドラマ」です。

これが、エゴのやり方なのです、「自分のやり方」なのでは、ありません。

それは、わたしじゃない、のです。

このことに気づくことが、重要なのです。

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