ダメンズ論とビックリマンチョコのお話

ダメンズ論、エネルギーバンパイア論。あとは、毒親理論。

これについて、いつ頃からだったか、違和感を感じるようになりました。

わたしはある時期、お世話になったというか、その道を通りかけたこともありましたが。「それに頼らずにはどうにもこうにも」くらいだったのです。

わたしの場合は、とくに、エネルギーバンパイア論と毒親理論かな。

そんな「それに頼らずにはどうにもこうにも」というような時期も、矛盾のような葛藤のような罪悪感のようなものを、感じていました。

心理療法(催眠療法)を受けたり、学んだりしていた頃には、「それに頼らずにはどうにもこうにもという状態で、矛盾のような葛藤のような罪悪感のようなものを、感じている」こと自体が、症状というか、被害者である証拠である、ということを、指摘されたこともありました。

 

 

 

でも、わたしは、長い間、「投影(鏡の法則の前に知ったワードは心理学の投影、おそれが強すぎて理解も実践もままならなかった頃)」に強く惹きつけられていたからなのか、なんなのか、

この、内側に生じる被害者意識が、ただ内側に生じているような気がすることは、たびたび、あった。

 

 

 

内側に感じる、被害者意識には、いろんな感情が、含まれているものです。

そして、必ず、セットなのが、復讐心。

わたしは、これを、長い間、ずっと内側に感じていて、飲み込まれることもあったけれども、戸惑ってもいました。復讐心のような、恨みのような、怒りのような、そういったものを感じたあとに、なぜかとてつもない惨めさや自己憐憫を感じることも、あった。あとから、深い深い罪悪感が襲ってくることもあった。

 

 

 

誰かに対して抱く、被害者意識と復讐心(怒りというか激怒)には、自分でもうんざりするというか、困り果てるというか、そんな状態でした。

この「誰かに対して抱く」というのは、たとえば、両親やパートナーであることもあれば、「現在進行形の誰か」ということもあれば、「過去に関わったけれども現在は疎遠になった誰か」ということもあれば、それ以外にも、著名な人というのか、たとえば、ニュースで見た誰かなども含まれます。

 

 

 

自分が被害者意識を持つとき、あるいは、被害者意識と同調するとき、そこには、必ず、復讐心のようなものがセットになっている。内観していくと、こういうことが、ほんとうによく見える。

その復讐心という加害者意識に駆られているとき、傷ついているのは、自分自身でしかない。

わたしは、この同一化から目覚めるまで、たくさんのひとの助けを借り(本・治療法・そこで出会った人々含める)、たくさんの時間をさき、たくさんのお金をかけましたが、

やはり、最後の最後、手放す決断というか、その意欲をはっきりと内側に保つとき、というのは、自分の内側でしか、ありませんでした。

 

 

 

 

「怒りとは酸である。注ぐ相手より、蓄える器をより侵す」 Mark Twain(マーク・トウェイン)

という名言を何度も思い出しますが、ほんとうにその通りでしかなくて、「ほんとうにその通りでしかない」と気づくのも、自分を愛すること。

多くの場合、自分が怒ってることにさえ、気づいていないのかもしれない。その場合は、それに気づくことも、自分を愛すること。

矛盾や葛藤というのは、激怒を生み出しますが、ほんとうは、そのすべてを、ただ、愛していっていい。

あるいは、そのすべてが、大いなる存在によって愛されていることを、何度も思い出していく(祈り)

大いなる存在とは無条件の愛であり、全肯定です。大いなる存在は、怒らないし、条件付けの愛とは、全くの無縁です。

 

 

 

わたしは、どうしても、自分だけは到底ゆるされないような気持ちになるとき、”ただ、愛でしかない、なにか(神様と呼びたいなにか)”に手を繋いでもらっているイメージをしていました。

「うしろから、包み込まれるように、そっと抱かれているように」と、いうクライアントさんもいらっしゃった。

そのとき、そのひとにとって、一番助けになる、ホッとする、イメージが、ちゃんと一人ひとり、届いているんだな、と、ここ数ヶ月は、何度も感じて、うれしかった。

 

 

 

なんというか、ダメンズ論(ダメ女論)にしても、エネルギーバンパイア論にしても、毒親理論にしても、

「被害者ー加害者(復讐心)」や「ジャッジ」という前提が、つらくて、扱えなくなってしまった。

ごまかしが、もう、きかなくなってしまった。

そのようにみるのが、わたし自身が、もう、ほんとうに、つらくなって、できなくなって、しまいました。

もちろん、みんながそうであるべきだとは、思っていないし、鏡の法則も含めた全ての心理療法、あるいは〇〇論・メソッドなどは、癒しのプロセスのために存在するものだと思っていますが、わたし自身がもう、つらいし、できません。

 

 

 

スピリチュアルというところでいうと(?)

たとえば、波動・波長・エネルギー・サスティナブル・風の時代という流れの中で、わーい!という感じと同時に、「映画 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のような、ものを、感じることもありました。

なので「波動・波長・エネルギー・サスティナブル・風の時代・・・」などに敏感だったり、好きだったりする場合も、まず自分の充電と純化あってこそ。

 

 

 

そして、霊障というか。

わたしは、もともと、「悪霊退散」的なイメージがなくて(なので、過去に、この角度から教えられたときは身体の痛みや重さがやたら気になって、当時は自分で意味が理解できていなかった)、

わたしの場合は、どちらかというと「救霊」なイメージです。

大いなる存在による愛によって、すべてが、愛に還ります。

 

 

 

そして、その「愛」というのは、実は、わたしたち、全員の内側にあって、なので、

愛の周波数チャンネル(ラジオの音量のくるくるのイメージです)は、わたしたちの内側にあって、各自、実は、調整可能。

だから、そのことを忘れたり、愛を求めたりすることはあっても、「愛がない人」というのは、わたしの感覚からすると、文章として成立しない感じがしてしまうというか、なんかモゾモゾします。「自分には愛がないと思い込んでいる人」の方が、スッキリします。笑

 

 

 

とはいえ、わたしも、どんなに意識的にコントロールしたところで、「悲惨な話、呆れる話」が耳に入り(ニュース系です)、怒りを感じ、ジャッジを感じることは、最近もありました。

だから、もう、分離ではなく、外側ではなく、内側の奥の奥の奥の神聖さへ戻る習慣づけの、チャンスだと、思ってます。

どちらかというと、ジムでトレーニング系です。

でも、苦行ではなく、修行です。

いや、修行というより、ビックリマンチョコに近いです。あれは食べるための物(ウエハースチョコ)ですが、必ず、想定できないシールがついてきます。

必ずついてくる、「想定できないおまけのシール」がついてきて、これがいいのよ、みたいな感じです。子どもにも大人にも、共通する楽しみ方かもしれない。

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