わたしがスピリチュアル的な言葉を使いたい理由

わたしが、このブログなどで、スピリチュアル的な言葉を使いたい理由を、いつか、ブログに書いてみたいと思っていました。

スピリチュアル的な言葉、というのは、例えば、神、愛、光・・・などです。

 

 

一時期は、スピリチュアル的な言葉というのを、意識的に使わないようにしていました。

それでも、伝えていくということはできますし、

「神、愛、光・・・」という言葉ではない、自分の内側から感じられる言葉を使いたい、というのは、今でも思うのですが(これが、一番難しく感じるところでもあり、でも、大事にしたいところでもあります)

 

 

でも。まず。

「願望成就の力と結びつく」とか「奇跡を体験する」とか「現実創造、インスピレーションの中を生きる」とか、

そういう話をするのであれば、

そしてそれを、自分も体験したい、それを生きたい、というのであれば、

「神聖性」「聖なるもの」というものに、心を開いていくことは、欠かせません。

その内側にある「聖なるもの」こそが、自分の内側にある創造性そのもの、成就の力そのもの、インスピレーションの源、だからです。

心を開いていく、というのは、

自分がそれに対して、さまざまなエゴの決めつけ・価値判断・ジャッジメント・固定観念・批判・勘違い・・・などを、持っていたことに(エゴと同一化していたことに)、

気づいていく、認めていくことが、必要です。罪悪感・恐れ・恥の感覚を持っている、ということに気づける場合も、あるかもしれません。

というか、どちらかといえば「気づくだけでOK」なので、批判的な思いが出てきたとしても、それはエゴの働きなので、「自分の性格が悪い」などと思い込む必要もないのです。

エゴ=本当のわたし、では、ありません。

 

 

スピリチュアルな表現に対して、なんか、抵抗がある、モヤモヤする、というときも、

そういったエゴの思い込みや思考パターンに気づいて、手放せる、チャンスです。

 

 

自分が、自分の純粋な感覚を感じられていれば、

スピリチュアルな表現があるものを読んでも、まったくそうでないものを読んでも、動揺する、ということがないはずなのです。そこに、差異をみなくなるはずなのです。

スピリチュアルなものを特別視することもなくなるだろうし、日常の中に霊性を見出すことになるということもあるかもしれません。

何か、感覚的に、モヤッとしたり、ざらっとしたり、引っかかる感じがするときは、

自分の中のエゴの思い込みや思考パターンを手放せるとき。

不要なものを手放していれば、あとは、自然と、最高最善へと、運ばれます。

 

 

「いや、私は、結婚したいだけだから、そんなの関係ないや」「いや、私は、年収アップして資産増やしたいだけだから、そんなの関係ないや」と思いますか?

それが、関係があるのですよ。

例えば、縁は神の采配であり、タイミングがよくなるのは神と共にあるときであり、

その成就の力こそ、内なる神性であり、

神と自分の関係性が、そのまま自分と誰か、自分と何かの関係性に現れているからです。

神、というのは、言い換えると、愛であり、

「神という言葉に対して抵抗がある」というような場合というのは、

自分自身の愛や、魅力や、才能や・・・そういったものを表現することを抵抗しているのかもしれないのです。

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