否定と肯定の「肯定」と、「全肯定」というのは、まったく、違います。
このことは、非常に重要なことで・・・
「全肯定」のことを「肯定」と勘違いしたまま、「肯定」をしていくと、
「危なっかしいこと」になることがあるようです。
「全肯定」のことを「肯定」と勘違いしたまま、「肯定」をしていく、というのは、
「危なっかしいこと」についての極端な例えになりますが・・・
(例1)
「良いも悪いもないんだから、犯罪を犯しても良いってことですか」みたいな思いが浮かぶ、とか、
※いやいやいや、だから、「良いも悪いもない」ということは「良い」もない、ということです(笑)「いいも悪いもない」と自分で答えを言ってるし!
(例2)
「アルコール依存症の兄を全肯定のまなざしで見ると決めたので、どんどんお酒を飲ませてあげよう」とか、
※これも「全肯定」と「肯定」を混同してしまっています。そういうことを言っているのでは、全くないのです。
(例3)
「Aさんのことが大嫌い!ムカつく!〇〇や、××なことをして、本当にひどいわ!」と思ったとして、
「全肯定でそのままでいい」ということで、
「Aさんは本当にひどいわ!嫌いになって当然よね!(そのままでいいのだ!)」と納得して終わる、というのは、これは全肯定ではなく、肯定、もっというと、開き直りや正当化ということになります。
全肯定、というのは、ジャッジメント(良い悪い、正しい間違い、好き嫌い、快不快)ではないのです。
けれども、エゴと同一化しているときというのは、ジャッジメントしかできなくなるので(エゴの思考ルートにハマってる感じなので)
やはり、こういうときに、大事なのは「自分は今エゴと同一化している、ジャッジメントでしか見れなくなっている」と自覚をすること、
そして「ジャッジメントではなく、全肯定でみる、ということをしてみたい」という思いを、自分の心の中に、見つけること。
それだけです。
いくら、頭で理解しようとしても、越えられない壁というのは、どうしてもあるのだけれど、
そういうとき、どうやって超えるかというと、自分の中に「超えたい」という思いがあることを見つけること、
そして、自分の中にある高次元の存在に、ゆだねること、です。