愛するとは?という長年の問い

わたしは昔「自分=思いやりがない人間」ということを本気で悩んでいたことがあって、

「思いやるとは、愛するとは、どういうことだろう?」と問い続けていたことがありました。

「人の気持ちを考える」と言っても、本気で考えて、考え詰めたら「わからない」のです。

「きっとこうだろう」という予測ができたとしても、その「自分だけの前提」で相手と関わるのは、なんだか、それこそ、思いやっていないような、尊重していないような、そんな気がしてきてしまったのです。

 

 

でも「思いやりがないわたしは、思いやりがある人間になりたい」という、今思えば「エゴの目標」という感じですが、本気でずっと、考え続けてきたのです。

 

 

それで、あるとき、あらゆるところから飛び込んできたメッセージは、

・自分を愛しなさい

・自分をゆるしなさい

・自分を愛せない人は、人を愛することができない

・自分を責めてる人は、同じように人を責める

などでした。

それで「よーし、自分を愛するぞ!ゆるすぞ!」と思うのですが、「あれ?どうやって?」とよくわかんない。

とりあえず、自分の好きなことをしたり、身体のことを大事にしようとしたりと、行動・形の面で、色々やってみましたが、これって、一時的には気分が上がるのですが、長続きしない。

「自分を愛するために!」なぜか浪費になって、そのことで自分を責めちゃって、苦しんじゃう。

長続きしないどころか、やればやるほど、心が虚しく、さみしい感じ、そしてなぜだか、惨めな感じになってくる。

でも、この「惨めな感じ」というのが、すごく嫌だったので、この感じから自分を解放したいと思って、どんどん、心について学んでいくことになります。

 

 

今思えば「ゆるしていない自分、嫌っている自分、裁いている自分、十字架にかけている自分、そういう思い」って、心の中に、隠しちゃっているので、わかんないんですよね。

だから「誰かの嫌いなところ、苦手なところ、ゆるせないところ(そんなふうに自分が見えてるところ)」が助けてくれる。

いつも、ちゃんと、自分を愛するために、助けてくれる誰かが、いる。

 

 

そうして、鏡の法則だったり、自分の心と向き合うことだったりを、続けていたのですが、

わたしが続けられたのは、楽しかったからだし、心が本当に落ち着くからだし、何より、奇跡の体験が本当はすごかったから。

それだけでなく、家族や友人など周りの人から「変わったね・・!」と驚かれること。自分では、全然変わったつもりないのですが、「変わったね・・!」の感じが、嬉しい、祝福な感じがしたから、とても嬉しかった。

じゃないと、続けられません。どちらかというと「飽き性で長続きしないタイプ、努力全然できないタイプ」みたいな感じだったし。

 

 

それでも、ずっと「愛するとは?」ということを、考え続けてきました。

それで、わたしがたどり着いた、というか、「ああ、ここだ」と落ち着いたのは、

「愛するとは愛されること」でした。

 

 

「愛そう!思いやりを持とう!」とわたしが「目標」みたいな感じにしても、なぜか「空気読めない感じ」になったり、「家族から理解してもらえないで怒られる、苦情がくる」みたいな感じになったり。笑

あるいは、行動に移す前に「あれ?これはただの世話焼きでは?心配では?押し付けがましいだけでは?愛のふりして攻撃しているのでは?」みたいな考えが浮かんで迷ったりします。

 

 

でも、わたしが「こんなに愛してくださって、大切にしてくださって、嬉しい」と、心から感じるとき、

両手を空にして、相手からの愛を受け入れるとき、

相手も一緒に喜んでくれている、という鏡の法則を、受け取ったのです。

 

 

だから、愛されたい。

愛されることで、愛するということを、すべての関係で、体験したい。

自分で頑張ってなんとかするのではなく、祈りによって、それを見せていただきたい。

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