ついつい、何度でも、うっかり、忘れがちなこと

自分が「誰かを嫌っている」という体験をしていることについて、自分を否定する必要はない。

自分が「何かを嫌だと思っている」という体験をしていることについて、自分を否定する必要はない。

自分が「誰かや何かを拒絶したい、拒否したい」という欲求を持っていることについてを、自分を否定する必要はない。

自分が「外側の何かや誰かを、自分の思い通りにしたい、支配したい、操作したい、コントロールしたい」という欲求を持っていることについて、自分を否定する必要はない。

自分が「執着」という体験をしていることについて、自分を否定する必要はない。

自分が「怒り」や「恨み」や「利己的な欲求」や「傲慢さ」や「嫉妬」や「殺意」や「批判的な考え」などを体験していることについて、自分を否定する必要はない。

自分が「嘘をつく」という体験をしたことについて、自分を否定する必要はない。

他の誰かが何を感じるか、何を選択するかということについて、自分が責任者になろうとする必要はない。

 

 

そういう思いや考えや欲求を持っていること、そういう体験をしていることについて、自分を否定する必要はない。

反対に、肯定したり、正当化したり、開き直ったり、誤魔化したりする必要もないけれども、

否定する必要もないし、裁く必要もないし、なんとか自分を制御しようとする必要もないし、

そんな思いを直視することを恐れる必要はないし、恐れるものではないし、

そんなことしてはダメだ、今のままではダメだ、なんとかしないとダメだ、と責め立てる必要もない。

 

 

このことについて、混乱してしまっている場合、忘れてしまっている場合、あるいは「頭ではわかっているんだけど、繰り返してしまう」というとき。

そんなときに「鏡の法則」を受け入れようとしてみても、自分を、さらに追い詰めて、苦しめるための道具になってしまうことが、ある。

 

 

自分は、自分が見たいように見ていただけだ。ということ。

でも、もう、このように見ることは、苦しみを持ち続けることになるので、やめたい。と心から望むこと。

自分の見方、主張、信念を取り下げ、自分が間違っていたいと望み、別の見方で見てみたい、と望むこと。

自分の見方、主張、信念、問題、願望は、不要であるとわかりたい、

なぜなら全て所有している・全て与えられているということを思い出したいから、ということを、心から望むこと。

そうして、奇跡を経験できないことはないのだけれど、

このように心から望む、心の状態になるにも、準備が必要、ということは、あると思います。

自分の心と向き合うのも、内観をするのも、苦手、なんか抵抗がある、というときも同じです。

 

 

鏡の法則や、内観が、悪いとか、危険とか、相性が悪いとか、なのではなくて、

「本を読むのもいいけれども、本を読むには、目が疲れていては、読むのも疲れてしまう」

みたいな感じです。

 

 

真理に沿って、心と向き合っていくというとき、

法則を受け入れていくというとき、私たちは必ず、

「”め”と”ぬ”を混同していたことに気づき、弁別していく」みたいな時期を通過するものです。

エゴの思考システムを使っている場合、つまり、過去の記憶が今、再生されていることに気づけない場合、この「”め”と”ぬ”」の違いが分からず、”ぬ”こそが”め”で、”め”は読めない、というようなことが起きるものです。

 

 

こんなときは、そんな自分を責めたり、さらに宿題を出したり、ダメ出しをしたり、人と比較したりしているよりも、

目を休ませればいいだけ、ということもあるのです。

 

 

一人ひとり、そのときそのときで、今学ぶべきレッスン、というのが異なる、ということがあるのです。

正解を当てはめたり、誰かを丸ごとお手本にしたり、真似をしてみたり、人と比べたりすることから、自然と、自分ひとりに向き合う、という基礎体力がついていく中で、

全ての物事に常に当てはまる、恒常的な、たったひとつのレッスンへと、向かっていきます。

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