「超高級指輪でプロポーズされた人」を鏡で見るの話

継続コースでは、とにかく「鏡で見る」ということをします。

なぜなら、これこそが、奇跡へと導いてくれるものだからです。

 

 

継続コース受講中のSさん(仮)と「羨ましい人、憧れる人(と思う人)を鏡で見る」ということをしていたとき、気づき、光を受け取ったので、ブログに書いてみたいと思います。

 

 

Sさんの「羨ましい人、憧れる人」として、

「高級ジュエリーブランドの、超高額であろう指輪をもらって、プロポーズされた人」

がいました。

 

 

ここで「鏡で見る(鏡の実践)」というのは、どういうことかというと、

わたしは、その外側の人や出来事に、何を見たか?

わたしは、その外側の人や出来事を見て、何を感じたか?どのように思ったか?

という、この「わたしの見方、わたしの心で感じたもの」を、見ていきます。

 

 

それで、Sさんに、

「高級ジュエリーブランドの、超高額であろう指輪をもらって、プロポーズされた人」

に何を見ましたか?何を感じましたか?と聞いてみると、

人に破格のお金をかけてもらえるのがいいな、と思った。

だって「高級ジュエリーブランドの超高級な指輪」って、まぁ、ある意味、無駄っちゃ無駄だから。

そんなある意味無駄っちゃ無駄なものを、他人のために使えるというのがすごいと思った。

とお話ししてくださったんですよね。

これを、聞いて、「おお〜!」と感じて、わたしは、以前、「誕生日でも母の日でも何でもないのに、母に花束を贈ったときのこと(関連記事:母とわたしの関係、神の姿のあらゆる側面)」を思い出しました。

なんというか、贅沢というか、「花より団子の花の方」というかを、「無駄なもの、意味ないもの」と、ジャッジ・禁止していたときのこと、

そのように、形をジャッジして、形をコントロールすることで、本当に大事な心の中のことを、見ないようにしていたときが、あったなぁ、ということを思い出したのです。

 

 

「肉眼」でみると、

「高い料金、安い料金」とか「大きな宝石、小さな宝石」とか「どこぞのブランド」とか「その物質の所有者であるのかないのか」とか「それを購入できるか、できないか。購入してもらえるか、してもらえないか(可能か不可能かというジャッジメント)」とか「これは無駄か、無駄じゃないか(ジャッジメント)」とか・・

そういうところが重点となりますが、

 

 

心の目で感じていくと・・

「たとえ、エゴのジャッジメントが無駄だと判断したとしても、愛を形にして表現すること。そのとき、エゴのジャッジメントや、料金といったところに囚われるのではなく、ただ、愛を自由にのびのび表現しているところ。愛を与えて受け取っているところ。自分だけのため、自分だけの利益とかではなく、誰かと共に、愛、豊かさ、喜びを分かち合うところ。これを自分に許可しているということ」

を、自分の心は感じ取っている・・ということが、見えてきます。(この心を感じるのが鏡の実践で大事なところです)

そして、「相手に見た光が、自分にはない」と信じ込んでいるとき、わたしたちは、羨ましいとか、憧れるとか、嫉妬するとか、そういう感情を感じます。

 

 

しかし、鏡の法則です。

誰かにあって自分にはない光、誰かにはなくて自分にある光・・という不一致を一致させていく、イコールにしていくのが、鏡の実践です。

 

 

Sさんのお話をよく聞いてみると、

だって「高級ジュエリーブランドの超高級な指輪」って、まぁ、ある意味、無駄っちゃ無駄だから。そんなある意味無駄っちゃ無駄なものを、他人のために使えるというのがすごいと思った。

というように、その女性もいいなと思っていると同時に、

その男性のこと・・その男性の「ある意味無駄っちゃ無駄だけど、他人のために使える」というところもすごいと思っている、ということです。

 

 

金額とかよりも、重要な何か。

確かに、エゴは、指輪について、「婚約指輪なんかなくても死にはしない」とか「結婚指輪なんかなくてもいい」とか「物欲は悪いことだ」とか「老後のために、貯金しておくほうが、より良い、正しい、お金の使い道だ」とか「より良い、正しいお金の使い方をすることで、安心できる。でも、そうしないと、恐ろしいことになる」などと判断するかもしれません。

確かに、婚約指輪があろうが、なかろうが、どちらでもいいのかもしれませんし、大事なのは形よりも心です。

けれども心は形になりたがります。

愛は、形を、通りたがるものなのです。

具現化とか、現実創造というとき、ここが、重要なのです。

 

 

これはもちろん「高けりゃいい」というものでもないし、好みは人それぞれで、好み自体は序列がつけられるものではありません。

「高いものは無駄」とか「高いからダメ」とかそういうのもジャッジメントであり、意外と見落としやすいところでもある、ということです。

本当は欲しいのに、欲しくないふりをしたり、物欲がないふりをしたりするのは、「酸っぱい葡萄」で、「酸っぱい葡萄」というのは、自分の中にある限りない力をないふりをしている、ということです。

 

 

Sさんが「高級ジュエリーブランドの、超高額であろう指輪をもらって、プロポーズした人・された人」に見ていたもの、感じていたもの・・

無駄だろうがなんだろうが、目一杯の愛を形にして表現すること。愛するということ。

目一杯の愛をまっさらな心で感謝と喜びで受け取る力。愛されるということ。

金額や「無駄か、無駄じゃないか」に囚われず、心の喜び、豊かさ、幸せ、自分の感覚を、自分が感じて従っていくということ・・

↑このどちらも、自分は、すでに持っている=すでにそうであると、自分がただ認めること。

だって、それを外に見て「感じた」のは、自分の心だからです。

ないものは、感じられません。

 

 

これが、羨ましい人バージョンの鏡の実践です。

これが「肉眼の視力ではなく、心の目の視力を使う」みたいな感じです。

 

 

さらに「これは無駄っちゃ無駄」だったり「意味があるといえばあるし、ないといえばない」みたいになったとき、

わたしの心は何を望んでいるのかということが、大事なのです。

形(肉眼、物質)じゃなくて、心のレベルで何を望んでいるのか、ということです。

その心がすべてだからで、その心が外側に映し出されるからです。

 

 

愛することと愛されることは同じであり、同時であるので、そのどちらもが自分の中にあるということ。

「超高級ジュエリーブランドの超高級指輪」として象徴されるのは、この世界のジャッジメント(高い・安い・お金が一番大事など)を軽く超える爆発的な愛・力が自分の中にすでにあるということ。

重要なのは象徴ではありません。重要なのは「高額指輪であるかどうか?」ではなく

この世界のジャッジメントなどを軽く超えているということ、お金に力を与えるのではなく、心に力があるということ。

それは、チョコレートであってもいいし、高級指輪であってもいい、ということです。心が何を感じているのかどうか、心の感覚、心の幸せを、感じ続けていくこと、ここにフォーカスすることが大事なのです。

心の中の限りない力、愛することと愛されるということ。それを、与えるし、受け取るし、その喜びをのびのびと分かち合っていくということ。

その愛を自分の内側に認めていくということ(自分の中にみた愛以外のものは、自分ではないと認めてゆるしていくということ)は、

「大きな愛」を受け取るとき(与えるとき)に、恐れたり疑ったりジャッジしたりしなくなっていくということで、

愛を歓迎します、という心の状態でもある、ということです。

 

 

・・なんというか「目に見えないもの」とか「愛」というものの偉大さ、純粋無垢性、無邪気さ・・

それを、ただ、純粋に、喜んで受け取る=与える。

みたいなものが、凝縮されたセッションだったので、ブログに書いてもよいかどうか聞いたら、ご快諾いただきましたので、ブログに書いてみました。

 

 

素敵な「羨ましい人の鏡の実践」のお話でした。

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