「神様 助けてください」と祈り続けた話

わたしは、長い間、何度も、

「神様 助けてください」

と祈り続けてきました。

心の底から、切実に。

 

 

「そんな神頼みだななんてバカみたい」とか「神様に縋りついてバカみたい」という「声」が、まとわりついてきていた時期も、ありました。

でも、祈るしかなかったので、祈ってきました。

闇雲のように感じていたときも長かったですが、とにかく本気だったので、ずっと導かれていたということが、今ではよくわかります。

ずっと本気だった、ずっと切実だった、というのは、言い換えると、

「本気で不幸で、苦痛で、惨めで、絶望していて、困難で、もうこんなのは嫌だ、なんかおかしい、なんか他にもっといい何かがあるはずだ。こんなに苦しいということ、幸せを感じていないということは、何か自分が間違っていて、何か勘違いしていて、何か自分がわかってないとても大切なことがあるはずだ」

ということでもありました。

 

 

なので、心の底から、まさに懇願という感じで「助けてください」と祈り続ける・・・ほどではない、とき。

でも、ちょこちょこ不平不満があったり、未知への好奇心があったり、でも問題というほどでもない、というようなときは、もしかしたら、実は、まぁまぁ幸せな時期だったのかもしれない・・・と思うこともありますが、そのときは、それがわかりませんでした。

 

 

今思うのは、

「神様 助けてください」というのは「本当の自分を思い出させてほしい」「自分がすでにもっているすべてを思い出させてほしい」ということ。

「救われたい」「救ってください」というのは、「偽の自分(エゴと同一化すること)」と「本来の自分自身」、どちらを選ぶかを選択する力、決断する力、望む力が、自分にあるということを、思い出させてほしい。

自分が本当はどちらを望んでいるのかを、正直に認めることができる覚悟と勇気を受け取らせてほしい。

そして、自分の心が選んだ原因の通りの結果を受け取っているという法則を受け入れさせてほしい。

ということ。

そして、心からそれを祈るとき、というのは、その力がMAXのときでもある、ということ。

沸点まで祈り続ける、というのは、忍耐が必要で、忍耐というのは、裁かない心のこと。

ちなみに「我慢」というのは、自分の主張・信じていることが正しいと押し通すこと、我意を張ることでもあって、仏語では「自分を偉いと立てる(わがままな)慢心」という意味があります。

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