待つときと動くとき。
分岐点。
という記事を書いてみて「エゴが嫌がる方をやるといい」というようなことを書きました。
エゴが嫌がる方。
エゴが「こっちだ!」という方と逆の方。
エゴというのは、過去の記憶でもあるので、「今までとは逆の選択」と思ってみると、なんとなく感覚も掴みやすいかもしれません。
「この見分け方がわからない。見分け方は?」と気になる場合は、
自分の内側の感覚に耳を澄ませていくのが、一番です。
しかし、今までとは逆の選択をする、しようと思う、というのは、とてもこわかったり、勇気が必要だったり、激しい抵抗がでたり、するものです。
「これは抵抗かもしれない」と気づけた場合は、まず、大事なのは、「これは抵抗だ」と自覚できているということ。
抵抗とは何かというと「想像を絶する最高の幸せ、喜び、奇跡、愛の体験」「愛し愛されているということ」「今も神とひとつであるということ」←これを、こわい、嫌だ、と思っている、ということ、とも言えます。なので、これを自覚することは、自分に正直になる、という上で、非常に重要です(最初は、ピンとこない、という方も多いかもしれません)
それで「エゴが右に行くようにと言っていて、自分の感覚としては左な感じがする。でも左に行くのがとってもこわい。とっても嫌だ」というようなことがあって、
右を選んだとしましょう。
このとき、大事なのは、この自分を、責めないこと。「なんで右を選んだんだ」と、自分をいじめないこと。
どんな自分も、等しく、優しく、慈しみ、無限の忍耐を持って、愛すること。ゆるすこと、ゆるすとはつまり、そこに罪を一切見ないこと。
忍耐というのは、裁かない、ということであって、我慢とは、全く別のものです。
それで「今、絶対に、エゴとは逆の方を選ばないと、乗り遅れる」みたいなことは、ないのです。
機会は、またやってくるでしょうし、シナリオは無限に近いほどあり、自分の心が選んでいますし、その都度選び直しています。
なので、次の機会がやってくるまで、どんな自分も、等しく、優しく、慈しみ、無限の忍耐を持って、愛すること。ゆるすこと、ゆるすとはつまり、そこに罪を一切見ないこと・・このことに、心を決めていれば、
次の機会では、きっと素晴らしい体験を受け取るでしょう。
「次の機会」と、書きましたが、別に、「仏の顔は三度までだ」みたいなことも、ないので、次の機会を逃したら、また次の機会でよいのです。笑
人間の顔は、人間の顔で、自分が相手を人間と知覚している限り、有限かもしれませんが、
仏の顔は、仏の顔だし、無限です。
大事なのは、目的をはっきりさせておくこと。
わたしの場合は、「激しい抵抗(何度も自分の感覚を無視してエゴについていくという天邪鬼)」の経験もありますし、「めちゃくちゃ怖い思いをして、勇気を持って内なる感覚に従う」という経験もあります。
今思えば、どちらも、貴重な経験だったと思います。
人生は、思っているよりも、遥かに優しく、素晴らしい、というのは、全員に開かれていることで、このことに自分が心を開くか閉じるかの、どちらかなのです。
自分が選んだとおりに体験している、自分が見たいように見ている、ということに、もし気づくことができたら、それだけで、かなりすごいというか、すごい感じを体験していくと思います。
「自分が選んだとおりに体験している、自分が見たいように見ている」これを、腹の底から腑に落ちて、いつもすぐに思い出せるようになると、見える世界、体験は、全く違ったものになると思います。
闇を見たいのか?光を見たいのか?
「光を見たい」とはっきり意図しておかないと、虚無みたいな感じ、「で???」みたいな感じ、「退屈」な感じに、なることがあります。