安心するための〇〇のループを閉じる

「問題を解くおもしろさ」というものもあると思う。

というか、わたし(人間としてののわたし)は、どちらかというと、問題を解くとか、謎解きとか、「最初の時点で!?となる」とか、そういう感じの映画とかドラマとかが好きなので、そういう映画やドラマをよく見ます。これは、なんとなく個人的に、エゴが、満足して成仏するような感覚がしています。笑

 

 

なので、「問題を解くおもしろさ」自体は、「それはそれ(いいよ)」という感じなのですが。

「心から溢れ出る幸せ、喜び(そしてそれが映し出された体験、具体的な出来事)」「驚きと喜びな奇跡の体験」を、

第一目的とするのであれば、先に答えを知っておくというか、受け入れておくというか、「なんかよくわからないけど、そういうものらしい」とか、そういう必要があります。

 

 

じゃあ、その答えとはなにかというと、愛だけがある(それ以外はない、あり得ない)、などです。これは、いろんな言葉で語ることができると思いますし、実際、いろんな言葉で語られていると思います。

この答えと矛盾しないこと、方向性が同じものとして、例えばですけれども、

すべての力は神からのものであるとか、

絶対的な安心は、今、すでに、自分自身に、与えられている、途切れることなく与えられ続けている、とか、

問題を観測したとしてその問題を完璧に解決するのは自分ではなく、自分の中にある自分より大きな何か、とか

そういう感じのことも言えます。

 

 

そして、例えば、こういうことって、精神世界というか霊性というか、そういうことがお好きな方にとっては、「聞いたことがある話、馴染み深い話」ということもあるかもしれませんし、

そうじゃない場合は「絶対的な安心は、今、すでに、自分自身に、与えられている!?へ!?いやいやいや、全然ないですし、愛とかいうよりさっき見た恐ろしいニュースの方があり得る感じがしてるんですけどなになに!?」となることもあるかもしれません。笑

これは、どのように感じたとしてもOKです。どっちが上とか下とかもないです。

どのように感じているとしても、自分が感じたこと、思ったことを、そのまま、よく見る、というのが大事だと思っています。

自分の内側から、ふわっと、溢れ出てきた考え、思い、感情に、正しいとか間違いとか、ないので。

ただ「こういうのが出てきた」と、安心して認めてOKだし、「解こう」とする必要がないのです。

なぜなら、すでに絶対的な安心というのは与えられ続けているし、「問題を観測したとしてその問題を完璧に解決するのは自分ではなく、自分の中にある自分より大きな何か」だからです。

だから、自分で、解こう、とする必要がない。

 

 

自分で「安心しよう」とする必要もない。

自分で「なんとかしよう」とする必要もない。

 

 

このことを、何度も何度も、思い出していく。

すると「石橋を叩いて、叩き切って、これは安心安全だと判断・確認してから、あれをしよう」と、自分への条件付けもしなくてよくなるし、計画を練る必要もなくなる。

だから、楽になる。

自分がする必要があるのは「背負っている重荷、心配、気掛かり、不安、無力感、焦り」を、ただ、それが出てきたたびに、光に、捧げること。

 

 

安心しよう、と、する必要が、ない。

なぜなら、すでに完璧な安心、芯からの安らぎ、完全なる平安は、常に、永遠に、与えられ続けているから。

これは「過去、危険な目に何度かあったことがあるわたし(人物としてのわたし)」でさえ、本気でそう思うというか、そうでしかない。

 

 

「絶対的な安心は、今、すでに、自分自身に、与えられている」について、

「へ!?いやいやいや、全然ないですし、愛とか安心とかいうより、さっき見た恐ろしいニュース、月末までになんとかしなければならない仕事、もうこんな歳なのに結婚できず彼氏もいない問題についての方が、あり得る感じというか、あり得ているんですけどなになに!?」

としか思えないとしても、それでも、与えられているのです。

そして、【A】完全なる愛(絶対的な深い安心)と、

【B】「さっき見た恐ろしいニュース、月末までになんとかしなければならない仕事、もうこんな歳なのに結婚できず彼氏もいない問題、ついでに言うと、今年来るかもしれない天災や二千万問題について」というのは、

【A】と【B】は共存できない、二つにひとつ、「自分の人生の運転席」に座るのは、この【A】か【B】かのどちらか。

わたしは【A】の方を、選びたい、受け入れたい、と心から望むと、

心において、AとBが入れ替わる。

運転手が、交代になる。

ガイドが、交代になる。

ほんのちょっとかもしれない、かすかかもしれない、でも感じられると思う。

心において、内側において、入れ替わる。

内側の反映が外側。

その反映として「驚きと喜びな奇跡の体験」「とっても嬉しいまるで天使たちからの贈り物的な体験」「神を感じる体験」

あるいは、一年半後くらいに「あれ!?気づいたらこんなことになってる(超幸せ超感謝)・・!」

などとして、受け取ることになります。

 

 

「安心してから〇〇」だと、

今安心できていない、安心できたら、〇〇する

という、今と安心の間に距離や時間があることになり、

「安心するための〇〇」が、印刷され続ける、ループする、みたいな感じになるのです。

この距離や時間がないことを、今、受け入れる、あるいは、受け入れたいと望む気持ちを自分の中に見つける。

 

 

「すでに今安心は与えられているらしい」と思ってみて、不快な感覚・恐れの感覚などを感じきるのと、

ただただ闇雲に、台風と共に、「恐れ・不快感をよく見る」としようとするのとでは、全然違うと思います。

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