幸せとは逆方向を自ら選んでいる気がするとき(わたしの体験談)

今日は、わたしの体験談です。

体験談を書いてみよう、と思っていたのですが、なかなか、思い出せず。。。

祈っていたところ、今朝、あるときのことを思い出したので、書いてみようと思います。

恥を忍んで書きます(笑)

※というか、長くなって、だいぶ、カットしましたが、それでも長いです。黒歴史の一つなので、いろいろ言い訳をしたい気持ちが出てきて、長文になりました。笑

 

 

わたしはあるとき、頻繁に、「小さい頃読んだ、あまのじゃくの絵本」を思い出していたときがありました。

あまのじゃくの、童話みたいな、絵本があって、それを、母や祖母に読んでもらったり、自分で読んだりしていました。

絵本は大好きだったので、色々読んでいたと思うのですが、頻繁に、「あまのじゃくの絵本」だけを思い出していたのでした。

 

 

その頃、自分の中で、

行ってはいけない方向に自ら行ってる気がする。

Aを選んだら、苦しむのはわかっているのに、Aを選んでしまう。

みたいなパターンが浮き上がっていました。

 

 

そして、これは、

「あと一歩のところで、幸せを逃してしまう」

「最高に幸せだとわかっているものほど、その手前で、背を向けてしまう」

「これをすれば、すごく楽になるし、豊かになるし、みんなもハッピーということがあるのに、絶対にそれをしない」

ということにも、つながっている感じでした。

 

 

それで、こういうとき、わたしは「自分が嫌いだと感じている人」を探すのですが、このときも、そうしました。

このときに、「自分が嫌いだと感じている人」の、どんなところを嫌いと感じているかを、みてみると、

 

 

自分が正しくて、あなたは間違っている、という人。

でした。(わたしにとって、そう見える、感じられる人、という意味です)

 

 

「自分が正しくて、あなたは間違っている、という人」を、他の言い方をすると、

自己主張が強い・・いや、単に自己主張が強いのではなくて、自分の主張だけが正しくて、それに反する主張は否定するか、馬鹿にするか、却下して無視するか、そういう感じ。

それで、自分の主張、自分の正しさを押し通そうとする感じ。

・・・わたしは、こういった人を、周りに作っては、「いや〜!」という一人芝居をしていました。

 

 

というか、ある時期、ほぼ毎回、全員、「自分が正しくて、あなたは間違っているという人」に反応していたので、「また?」みたいな感じだったかもしれません。

 

 

それで、あるとき、このことについて内観をしていて、思い出したことがありました。

それは、中学生の頃のことでした。

わたしは、小学生の頃と、中学生の頃と、高校生の頃と、それぞれ、不登校を経験しています。

その中でも「中学生の頃、学校に行きたくなくなったときのこと」を、ふと、思い出したのです。

 

 

わたしは、中学生の頃、学校内にいるのがつらくてつらくて、仕方がなくなったことがありました。

何か、具体的な理由があった、ということではないんです。

今思えばなのですが、わたしはみんなから仲良くしてもらっていましたし、クラス委員長になったり、文化祭でみんなの前でピアノを弾いたり・・と、「側から見ると学校生活楽しんでる方」だったかもしれないと、思うほどです。

しかし、あるときから、学校内にいるのが、つらくてつらくて仕方がなくなって、教室にいると、急に涙が止まらなくなり、走って教室から出て行って、早退することが、度々ありました。

 

 

それで、わたしはあるとき、もう学校に行きたくない、と、心も身体も、動かなくなったのです。

当然、父と母からは、理由を尋ねられます。

わたしは「学校に行くのがつらいから。行きたくないから」くらいは話したと思うのですが、父も母も、それだけでは納得せずに、なぜつらいのか?何があったのか?を聞いてきます。(まぁ、これは、親として、人として、普通のこと、当然のことです)

 

 

ここで、わたしは、「親に話しても、どうせ、理解してもらえない」と思った・・ということを思い出したのです。

本当は、「なぜこんなに苦しくなって、突然涙がとまらなくなるのか」について、理解できていなかったし、突然溢れてくる涙をコントロールすることもできなかったのです。

このことについて、自分を責めて、実は自分に腹立たしさを感じていたのですが、

「親が理解してくれない」と思うことにした、ということを、思い出したのです。

すると、親は親の方で、「自分たちに問題があるんじゃないか」とか「病気なんじゃないか」とか、「なぜこうなったかについての仮説」を立て始めて、わたしは、それに便乗することにしたのでした。

※この、太字にしているところで、わたしは罪悪感、恥を持つことになったのです。

 

 

「とてもつらくて、苦しくて、急に涙が止まらなくなること、そしてそれが制御不可能であること」について、自分が一番、こわかったのです。

そして、「とてもつらくて、苦しくて、急に涙が止まらなくなること、そしてそれが制御不可能であること、理解不可能であること」を、わたし自身が、腹立たしく感じ、恥ずかしいこと、みっともないこと、悪いこと、劣ったこと、みんなを不幸にすること、欠陥品でありダメである、というふうに、思っていたのです。

だから、急に涙が止まらなくなると、教室から出て行ったのです。恥ずかしくて、みっともなくて、悪いことだと思っていたからです。

そして、保健室にも行かず、学校の敷地外に出て、公衆電話から母に電話をかけて、母が迎えにくるまで、隠れていたのです。

 

 

わたしは、恥ずかしい存在、みっともない存在、悪い存在、劣った存在、みんなを不幸にする存在、欠陥品でありダメな存在である。

だから、隠れていないといけない。

 

 

そして、わたしは、家の中で、「なぜこんなに苦しくなって、突然涙がとまらなくなるのか」について、自分が、理解していなかったところを、「親が理解してくれない」ということにして、

「親や周囲が間違っていて、自分が正しい」という証明をしはじめることに、したのです。

親も理解できなかったかもしれませんが、自分も理解できていなくて、でも「自分は自分の苦しみについて理解しているが、みんなは理解してくれない。理解をするべきだ」というようなことを、思うことにしたのです。

※太字は恥と罪悪感の箇所。

 

 

わたしは、恥ずかしい存在、みっともない存在、悪い存在、劣った存在、みんなを不幸にする存在、欠陥品でありダメな存在であるからこそ、

「自分は何も悪くなくて、自分は何も間違っていない」ということを、わざわざ、証明する必要があった。

正しくありたい欲求があるのは、自分が自分をダメだと信じているから。

いつかやがて、罰を受けるに相応しいから、それが恐ろしいから、正しくありたかったのです。

そして、正しくあるための方法を探し続けてきました。

 

 

この中学生の頃、自分の心の中で起きたことは、わたしの中にある「モヤモヤ」を直視するためのヒントでした。

 

 

わたしは、恥ずかしい存在、みっともない存在、悪い存在、劣った存在、みんなを不幸にする存在、欠陥品でありダメな存在だから、

そんな罪深く、ダメなわたしは、罰にふさわしく、いつか、やがて、大変なことになるから、そうなるに決まっているから、

 

 

だから、昔、ほとんど不労収入的なシステムを作って自営業をしていたときでさえ、自分に対して心を休ませる許可を出せないなかった。

だから、好きな人ができても、仲良くなること、愛されることを自分に許可できず、自ら遠ざかっていた。

だから、恋人ができても、素直になれず、「きっと嫌われるであろう」振る舞いがやめられなかった。

だから、大切な人が「手が離せないとき」を、直感的、もしくは、無意識的にそれ察知して、その頃合いを見計らって「大惨事」に巻き込まれて、「大切な人が助けにきてくれない」という現実を作っていた。

だから、お金が入っても、すぐにそれ以上に使ってしまっていた。

だから、「こちらを選べば幸せ」ということを、予めわかっていても、そちらが選べなかった。

だから、「こっちは選ばない方がいい」という感覚がはっきりしていても、選ばない方がいい方を選んでしまっていた。

だから、直感的に「こっちが茨の道だ」ということを、予めわかっていても、そちらを選んでいた。

なぜなら、罪深いわたしは、罰を受けるに相応しいからです。

全て、自分が自分に与えていた、罰だったのです。

 

 

自分が正しくて、あなたは間違っている、という人・・・

自分の主張だけが正しくて、それに反する主張は否定するか、見下すか、馬鹿にするか、却下して無視する人・・・

それで、自分の主張、自分の正しさに、周囲を従わせようとする人・・・

これは、まさに「自分が、自分だと信じ込んで、罪だと裁いて、罰し続けてきたセルフイメージ」だったのです。

 

 

このようにして、内観によって、自分の中で、カチッと何かがハマると、心が解放されます。

心が解放されるので、それは、この世界の体験にも自ずと反映されます。(奇跡)

 

 

そして、この、扉を開くための鍵を差し出してくれている人、

「カチッ」とするために現れてくれているひと、というのが、

自分が嫌いだと思っている人、

自分が密かに裁いている人、批判している人、

なのです。

こう考えるともう、自分の「嫌い、苦手、動揺」センサーが働く人は、天使に見えるようになってきます。笑

しかも、投影だったことに気づくと、嫌いだった人が嫌いじゃなくなる、故に、「嫌いな人がいなくなる」のです。

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