「わたしが幸せになったら、あなたが悲しむ」という迷路

わたしが幸せになったら、あなたが悲しむ。

わたしがしたいことをしたら、家族が悲しむ。

わたしがしたいことをしたら、家族に迷惑をかける。

わたしがしたいことをしたら、家族が嫌な顔をするのは決まっている。

でも、わたしは、家族と、仲良く、平和に暮らしたい。

だから、わたしは、自分のしたいことや、自分の好きなこと、自分の夢、自分の幸せを、我慢しないといけない。

わたし「だけが」幸せになったら、家族に悪い。

だから、わたしが、家族を幸せにしないといけない。そうしてから、わたしも幸せにならないといけない。

 

 

・・・こういった考え、認識は、

いつまでも、いつまでも、つきまとう。

誰かに相談をしてみて「そんなことより、自分の幸せを優先したらいいよ」と言ってもらったとしても、

いつまでも、いつまでも、つきまとう・・・

 

 

そんな経験がわたしには、昔あって、

あまりにも、ずっと付きまとってきて、うんざりしていたあるとき、

ふと、「わたしが、間違っているんだ」という考えが、頭に浮かんだ。

確信のような、安心のような、そんな感覚と共に、「わたしが、間違ってるんだ」と、なぜか、はっきり思ったことがあった。

 

 

わたしが幸せになったら、あなたが悲しむ。

わたしがしたいことをしたら、家族が悲しむ。

わたしがしたいことをしたら、家族に迷惑をかける。

わたしがしたいことをしたら、家族が嫌な顔をするのは決まっている。

でも、わたしは、家族と、仲良く、平和に暮らしたい。

だから、わたしは、自分のしたいことや、自分の好きなこと、自分の夢、自分の幸せを、我慢しないといけない。

わたし「だけが」幸せになったら、家族に悪い。

だから、わたしが、家族を幸せにしないといけない。そうしてから、わたしも幸せにならないといけない。

こういった見方・考え方について「わたしの考えは、正しい」と思っていた。

絶対にそうだ、と思っていた。だから「ほら、やっぱりそうだ」と思える出来事を作り出していた。

そうして「過去のこと、同じことが繰り返される」という状態で、

自分の中で、自動的に浮かんでくる「なぜか当たる不吉な予感」に対して、わたしは無力感を感じていた。

けれども、↑の見方・考え方は、間違っているんだ、ということが、

あるとき、急に、「そうだわ」みたいな感じになった。

不幸である、苦痛がある、不自由がある、束縛を感じる、葛藤がある、ということは、

自分の中の何かが、どこかが、間違っている。

何か、誤りがあるので、不幸、ということがまるで可能みたいな感じになっている。

 

 

そして、その少しあとで、

わたしは自分が自分を作ることができたと思っていたこと、

相手が、悲しんだり、喜んだりする責任を、自分が背負っていて、

わたしが、相手を、幸せにしないといけない・・・

そんな、なんとも傲慢な錯覚に陥っていたことに気づいた。

 

 

そうじゃなかった。

わたしのことも、相手のことも、みんなのことも、

幸せにしてくださるのは、わたしじゃなくて、神様だった。

わたしのすることは、その与えられ続けている幸せを素直に感謝の心で受け取り続けることだった。

 

 

神様は、悲しんだり、がっかりしたり、落ち込んだり、嫌な気持ちになったとき、

「そのままでいい」と、そのままを、認めてくれていた。そんなふうにして、存在を感じさせてくれている。

「そのままでよくない」と、なんとかしようとするようなことは、決してしなかった。

嵐はやがて過ぎ去るし、過去はすでに過ぎ去っている。

 

 

大切な人が「自分によって、自分のせいで」悲しむように見えるとき、

それは、相手に対しても自分に対しても「外側が先で、内側が後」という見方をしていることになる。

「あなたにとっての外側であるわたしによって(外側が原因、先)、

あなたは悲しんでいる(内側は結果)」

この「外側が先で、内側が後」という見方を信じているのか、

「内側が先で、外側はその反映」という見方を選んでいるのか、

自分が選んでいる方の見方で、全てを見ることになる。

「あなたの悲しみはわたしのせいで、わたしの悲しみはあなたのせいよ」

というのが、依存関係。

 

 

ちなみに、わたしは、昔、

「わたしがしたいことをしたら、両親は絶対に悲しむだろう」

と信じていたことがあります。

 

 

そのとき「もし、わたしが、県外や海外に住んだら、両親は絶対に悲しむに違いない」と思っていたし、

「その証拠もたくさん集めていた」ので、「絶対にそうだ」と思っていました。

 

 

それで、しばらくしたあとで、「わたしは今、この場所で、満足している」ということに気づいたのです。

「もし」とか、色々考えていたので、「両親が悲しむから、わたしは住みたい場所に住めないし、いつも我慢しているし、したいこともできない」と思い悩んでいたのですが、

「別に、今、わたしは、この場所で満足しているし、すでにすごく自由に生きている」

ということを、誰かから指摘されたとかでもなく、そう思ったことがあったのです。

やはり、わたしが、何か、どこかを、勘違いしていた。

さらに「今」ではなく「もし」とか「未来と過去」ばかりを考えていたので、心休まることも、すでに与えられ続けている自由に気づくことも、できなかった。

 

 

未来のことを語ったり、考えたりすることは、「前向きないいこと」と解釈されることもあるかもしれませんが、

いつだって、大事なのは、今。

未来のことを語ったり、考えたりするのも、目的は、今と向き合うため。今と一致するため。

今と一致しない以上「わたしの幸せがそのままみんなの幸せとして映し出される奇跡、鏡の法則」を生きることができない。

今と一致する、ということが、「わたしの幸せがそのままみんなの幸せとして映し出される奇跡、鏡の法則」を生きるということ。

過去は過ぎ去っていて、今、幸せが与えられている。

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