不要なもの(自分じゃないもの)と望むもの(本当の自分)

前回のつづき。

前回の記事はこちらです:「わたしが幸せになったら、あなたが悲しむ」という迷路

 

 

不幸、とまではいかなくても、「完璧な幸せで満ち満ちている」といえないときは、

「何か、自分が間違ってる」ということをふと思って(このときわたしは、裁かれてる感じとか、自分の正しさを主張したい気持ちとかじゃなくて、ただ安心した)

さらに「もし」が差し引かれて、

「わたしは、今、この場所で満足している」

ということが、わかったとき。

今までも、今も、そしてこれからも、「わたしは、今いる場所で満足する」ということを確信しました。

これは「わたしは常に、満足する場所に、いることになるんだ」ということと同じ意味です。

そして、その通りになっている。

心から満足していると、満足する場所に行くことになる。

今が、今を、創り続けている。

 

 

これは「手が届かないような目標として設定したものが、手に入り続ける」というような、なんというか、走り続けなきゃいけないレース、みたいな感じじゃなくて、

「常に、満足する場所にいることになる」ので、これは、すべての体験が、喜びの驚きというか、わくわくするものになる。

先のことは予測できない、というのは、あまりにも幸せなこと、という実感になっている・・と書きながら、改めてそう思った。

色々ひっくり返る。

 

 

ずっと前は「先のことは予測できないことで、きっと恐ろしいこと・大変なことが起こるに違いない、その確率はあるのだから、警戒して、準備しておかないといけない。でも、わたしにはそれができない。それができない自分はダメ人間だ」と思って、自分を責め続けていたのだけれども、

ちょっと待てよ。

「予測できない先のことを、あらかじめ予測しておかなければならない」

というこれは、矛盾でしかないし、こんな矛盾を自分に押し付けていたら、そりゃ精神的に病んで当然、という感じです。

こういうことを言うと「じゃあ、災害への備えも、貯金も保険も、しなくていいってこと?」と、必ず聞かれるのですが、そもそも、そういう話ではないのです。

予測できない未来に不安になりながら、怯えながら、予測しようとしていなくても、そういう心境じゃなくても、必要な備えというのは、自然となされる。導かれる。そういった、この世での必要を満たしてくれるのも、神様のお仕事。

 

 

「完璧な幸せで満ち満ちている」といえないときは、浄化のときで、

浄化というのは、不要なもの・自分のものではないものを手放していくこと。

「もの」というのは、感情、思考、固定観念、価値観、決めつけ、思い込み、思考パターンなどです。

不要なもの・自分のものではないもの、というのは、本当は外側のもの。

本当は外側のものを、自分だと思っていると、自分の本音がわからなくなったり、

「本当の自分とは、最低最悪だ」というような、思い込みを作ることになったりする。

この、不要なものは、すべて、奇跡の道具になる。

 

 

それで、なかなか、内観ができない、という場合に「体験を通して、心と向き合う・・」ということもある。

例えば、真っ先に思い浮かぶのが断捨離・・不用品の処分、家の掃除片付けです。

断捨離では、例えば、現状がどうなっているかを把握して、取っておくものと、捨てるものを、自分の内側と向き合う中で、「不要な思考パターン」とか「思考癖」に気づくと思う。

※気づかなくても、部屋がスッキリ片付くだけでも、さっぱりしてくるし、不要な物ではなく大事な物だけに囲まれていると、自分の感覚がはっきりしてくるということもあるかもしれない。

 

 

不要な思考パターン、思考グセ、固定観念、そういったものに気づいていく中で、心が軽くなり、自分が本当に望んでいるものが、はっきりしてくる。

不要なものを手放すのは、自分にとって、本当に真の意味で、望むものをはっきりさせるため。

不要なものははっきりしたけど、「望むものがはっきりしない」というときは、奇跡の体験を何度も受け取ることによって、だんだんと、はっきりしてくる。

不要なものを手放すのは大事だけど、「望んでいるのはこっち」というのも大事。

いつだって、見たいものを見ることになる。

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