「思ってたのと違う」とき、心に余白を与える

現実を見て、

「思ってたのと違う」と言いたくなるとき。

「こんなのは嫌だ、こんなふうにはなってほしくなかった」と言いたくなるとき。

 

 

あるとき、わたしは、インターネットでドライフルーツ的なものを買いました。

送られてきたものは、業務用かな?というほど量が多く、「これは数ヶ月は持ちそうだ」という感じでした。

なんというか、写真をみて予想していたよりも、はるかに量がおおい。

それで、ふと賞味期限をみると、なんと、3日後だったのです。

「思ってたのと違う」

が一瞬、頭をよぎります。

 

 

そして、「思ってたのと違う」に被せるようにして、

「愛は不満を抱かない。(中央アート出版 奇跡講座 下巻 W-pI.68)」

「奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。(中央アート出版 奇跡講座 下巻 W-pI.78)」

が思い出されます。

「ああ、そっか」と、わたしは思います。

わたしは神の子であり愛そのものだった、ということを、受け入れることにしたんだったし、それを思い出したいんだった。(全然よくわかっていないからこそ、わかりたい、学びたい、実感したい、思い出したいので、こうして祈っているんだった)

それで、不満は「奇跡がすべての不満と入れ替わりますように」と祈ればよかったんだった。(自分でなんとかしようとせずに、助けを求めればいいんだった)

ということなどを思い出します。

 

 

それで、これを思い出したからといって、手元に届いたドライフルーツの賞味期限がのびた、とか、そういうことじゃないです。笑

 

 

この場合、わたしは、

「思ってたのと違う」に被せるようにして、

「愛は不満を抱かない。(中央アート出版 奇跡講座 下巻 W-pI.68)」

「奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。(中央アート出版 奇跡講座 下巻 W-pI.78)」

が思い出されただけでも、結構嬉しかったりしてました。

 

 

それで、祈って、聖霊に、「聖霊 あなたはこのことをどのように見ますか?わたしはこのことから、何に気づくことができますか?」と尋ねてみます。

すると、数年前から、「買い物はできるだけ、実店舗で買う」という指示を受け取っていたことを、まず、思い出しました。

あるときまで「ほとんどインターネットで買えばいいじゃん」みたいになっていたのですが、ある日、「買い物はできるだけ、実店舗で買う」という感覚を受け取り、できるだけそうするようにしていたのですが、最近また、インターネットで全部片付けようとしかかっていたことを思い出します。

※これは「インターネットで買い物をすべきじゃない」ということを暗示している、ということでもなく、「みんなそうすべきだ」というわけでもないです。行動面のところに意味があるわけじゃないです。

 

 

それでも、なんか、「残ってる感じ」があるので「これは何でしょうか?」と尋ねてみると、

「思ってるのと違うと言いたいときは、”思ってるもの”が、間違ってる」みたいな感じが返ってきます。

 

 

「”思ってるもの”が、間違ってる」

”思ってるもの”、つまり、自分がほしいと思っていること、自分が「これがわたしの望みだ」と思っていること、自分が目的だと思っていること、自分が期待していると思っていること、きっとこうなるだろうという予測・・

これが、間違ってる、というのです。

妙に、なんか、納得。

 

 

・・つまり、この「ドライフルーツ賞味期限問題」でいえば・・・

「(このわたしが)残さず食べきれそうな量と、賞味期限の長さをもった、ドライフルーツが送られてくること」

「賞味期限が1週間以内の場合は、ウェブサイトに、猿でもわかるようにして、デカデカと書いていること」

↑これが「自分の望み(期待、欲求・・)である」と思っていましたが(=そう思っていたことに気づいていませんでしたが)

ぜんぜん、そうじゃない、見当違いもいいところだ、ということです。笑

 

 

じゃあ、なんなのか?

何が、わたしの本当の望みなのか?

 

 

このように、「わたしのほんとうの望み」を、実は、自分がわかっていなかったかもしれない、自分が間違っていたのかもしれない、という余白を心に与えるということは、

「真の願望」つまり「すでに叶っている願い」と一致する上で、とてもとても大事です。

 

 

「これがわたしの願いですから」と言い張った上で、一歩も譲らず、「このわたしの願いを叶えるために」と、なんとかしようとしつづけても、おそらく、心が苦しくなると思います。

心が苦しくなかったとしても、「現象」に投影される、ということもあるかもしれません。

「思ってたのと違う!」と叫び続けることになります。

 

 

 

祈り、というのは、いろいろな段階、側面があるかもしれませんが、

祈りというのは、すでに叶っているものを認識できるように助けを求めていく、みたいな感じでもあります。

 

 

 

ちなみに、大量のドライフルーツはどうなったかというと、賞味期限を気にしない家族が、めちゃくちゃ喜んで食べていました。(ちゃんと、賞味期限の話はしました)

わたしはというと、この件を通して、

・具体的な導きを求めておきながら、それに従いたくない、と抵抗していたことに気づいて、祈る機会を受け取れた

・不満を持った瞬間、レッスンを思い出せたことが嬉しかった

・とにかく、祈りだったり、レッスンだったりが与えられていて、本当によかったと思った。すごく感謝した

という感じでした。

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