なぜ「全体の1割・2割だそう」という話を書いたのか。
なぜ「抵抗」について書くとき、あんなにもためらいがあったのか。
「神」という言葉を使うとき、まだまだこんなにも、抵抗があるのか。
「どうして、そう思うの?」「なにをおそれているの?」「なにがこわいの?」と自分にインタビューする期間を過ごしていたこともありましたが、最近は、ほんとうに、わたしは、ただ、わたしがほんとうに求めていたものを、恐れているだけなんだ、という感じです。
そんな日々を、肉体的な習慣をまだまだ感じながらも、生きています。
「全体の1割・2割だそう」
この言葉をタイトルに選んだあと、「それは選民思考を煽るのでは?」という「声」が聞こえた。
全く、そんな話ではなくて、ただ「結構なことを、お伝えしてきたんだ」ということです。
「結構なことを、お伝えしてきたんだ」
これは、どういうことかというと、自分が自分に、嘘をつけなくなるということでもあるのだけど、これは裏を返せば、わたしたちは、ほとんどの場合、自分に嘘をついている、ということです。
自分の本音に嘘をついてきて、自分の本音よりも、外側(家庭や学校や社会やテレビやインターネットや好きな人から吸収した価値観)を軸にしてきた、ということ。
「好きな人(これは恋愛に限らず)」に合わせて、まわりに合わせて、生きてきた、ということ。
空気を読むうちに、外側にアンテナを立てることに慣れてしまって、だから「内側がわからない」となってしまっていたということ。
内側というのは、内なる神、魂、自分の神聖さ、神秘さ、本来の自分が、ほんとうは、そこにあるのだけれど、恐ろしいものが住み着いていると信じ込んでしまって、否定的なセルフイメージを盲信している。
このように、わたしたちは、自分に嘘をついてきた。
嘘をついたあとで「ごめん、あれは、嘘だったんだ」と白状するのは、「一般的なこと」に当てはめて想像してみても、なかなか難しいということはよくある。
よほど、素直で純粋じゃないと難しい。だから、子供の頃の方が、こういったことは、できていたかもしれない。
隠し事をした後で、相手にバレる前に「ごめん、なかなか言えなかったんだけど、やっぱり、伝えたいと思って」といことも同じだと思う。これは、最初から、先手を打つようにして、隠しておきたいことを、打ち明けるよりも、よほどの勇気がいるし、難しいこと、かも、しれない。
でも、相手が、自分と向き合ってくれる人だったら、相手が精神的に成熟している人だったら、そのように打ち明けてくれたことを、評価してくれるものです。
このように「一般的に考えて」も、嘘をついたり、隠し事をしたりして、その後で、正直になる、素直に謝る、ほんとうの気持ちを打ち明ける、というのは、なかなか、大人になると、難しいこともあるかもしれないのですが、
「自分と向き合う」ときは、自分が自分に対して、これを、する、ということです。(鏡もそんな感じのところがあります、というか鏡はある程度自己受容できていないと、難しいかも?)
「自分と向き合う」ときは、自分が自分に対して、これを、する、ということです。
このことについて、わたしは、内観初期の頃、「ラッキー」と思いました。
ただ、これだけで、いいんだ、と思って、自分の心(心というかエゴ)が「みたくない」と言っているところほど、宝がある、ということだと思って、見るようにしました。
それでも、やはり、重要なテーマがあるところほど、「みたくない!」が強く働きやすい、ということは、何度も経験しました。
この「みたくない感」というか、そういうのが、働くところほど、宝だし、
嫌いな人・最悪の出来事、もう無理なんじゃないかと激しく動揺する出来事ほど、「奇跡へようこそ」という看板が建てられている、というのは、経験することによって、確かなものになってくるので、経験するしかないです、奇跡を。
正直、ここに書くようなひたすら内観というか、内側に原因というような話は、「ウケが悪い」のではないか、と何度か思いました。
「地味だし」みたいに感じていたような節もありました(笑)
エゴにとっては、エゴが終わっていくことは、都合が悪いので、ウケは悪いです。
エゴが終わるというのは・・・言い換えるとたとえば自己中心性が終わっていくこと、機能不全が終わっていくこと、愛する人と喧嘩でつながる関係性が終わっていくこと、ですね。
そして、外側に答えを求めたいエゴ、登場人物だけ入れ替えた同じような作りの奇想天外な起承転結ドラマを繰り返していたいエゴは、
「内側にすでに答えもあった、創造性はすでに持っていた」なんて、「もう、水戸⚫︎門の続編ドラマ作れないじゃん、どのドラマを生きれないじゃん」みたいになる感じがしていて、やはり、どこかで、水戸⚫︎門の続編を上映し続けていようとするところがあるのです(だから、もう同じパターンの繰り返しを終わらせたい、本気で幸せに生きると決意できる頃、というのは恒常性維持機能を超えていく必要があります)
でも、そのドラマの中で、いくら頑張っても、無理をしても、ほんとうに意味がないというか、意味があることは、他のところにあって、それはずっと、ご自分の中から失われていません。
はっきりいって、頑張ったり、無理をすると、流れが悪くなるというか、滞ります。
エゴという言葉も、以前のブログでは、あまり使わなかっただけで、でも、使わないと、「これ以上の説明ができない」ので使うようにしました。
祈りもそう。神もそう。抵抗もそう。
重要なワードを、わたしは、伏せながら、書いてきただけで、でも、深い説明、つまり、より誤解なく真っ直ぐに伝えるためには、どうしても、こういった言葉を使う必要がありました。
エゴが嫌がるところほど、宝です。
エゴ(自己中心性・作者倒錯・不幸依存症)は「肉体を持ったわたし、わたしたち」は、いつでもハマり込んでしまう、ことがあって、そこから完全に目覚める瞬間を選び続けている人たが、全体の1割・2割らしくて、
これは、数年前から急激に増えているそうで、おそれの浄化、感情の浄化、純化というところが追いついていないまま先に目覚める、ということも多いそうなので、浄化の記事も、最近は、よく書いていました。
たとえば、世にいう「トップクラス級の成功者」「アバンダンスクラス」となると、この全体の1割・2割だそうです。
つまり、本気で、エゴ(自己中心性・作者倒錯・不幸依存症)が、嫌がるほど自由というのか、解放というのか、です。
2018年から、はじめた活動(ブログ・セッション)で、出会った今もご縁がある人、再会する人々、これから会う人々、は、「それ」を共有してくれているのだと思うと、なんだか、不思議な気持ちになりました。
このような話を書くと「わたしは、魂の目覚めとかじゃなくて、結婚がしたいし、こういう生活をしたい、これを叶えたい、お金がない」という「声」が聞こえてきますが、
だから、そういった願いや悩みなどを道具に使って、「それ」を生きる、ということです。