ずっと書くのが恐ろしいようなめんどくさいような気がしていたこと

ずっと、書くのが、恐ろしいような、めんどくさいような気がしていたこと、というタイトルにしましたが、

意外と、もしかしたら、何度も書いてるかもしれませんし、セッションやグループレッスンではよくこういう話をしている気がします笑

 

 

継続コースですが、今月から、

継続コースが2回目以降だという方が割引料金になりました。(継続コースが初回の方は、そのままです)

何%かオフになっています、計算がちょっとあれなので、気になる方はお申し込みフォームをご確認ください。

これには、続きがあるのですが、長くなるかもしれないので、一旦ここまでとして、続きは次のブログに書きます。

・・と、書いていた、その続きでもあります。

 

 

ringoセッションは、リピートの方も、とても多いです。

それで、あるときから、フォローセッション(継続コース後の1回セッション)をオープンにしたのですが、

なぜか、圧倒的に、継続コース再受講お申し込みのクライアントさんの方が多いです。

それで、そんなリピートの方のお話をお伺いしていて、それぞれいろんな感じ方、継続コース活用の仕方があるような、そんな感じがしていて「導きに使っていただいている」という感じを何度も感じて、とてもありがたく思っています。

 

 

最初は具体的な願望を叶えたいという感じだったけど、自分自身と向き合っていく中で奇跡もたくさん受け取ってきたし、今振り返れば驚くほど変わったと感じるけど、今は法則性や霊性についての学びが楽しいし深めたい、祈りを深めたい

という方もたくさんいらっしゃって、それも嬉しいです。

わたしも、それはすごく感じるというか。

わたし自身、霊的な学びやヒーリングなどを受ける側・学ぶ側でもあり続けていて、あるときから「解決したい問題、叶えたい願いがあるから受ける・学ぶ」とかじゃなくなってきたのです。

なんというか、質感がどんどん、変わっていったのです。

この世界の必要は、どんどん、満たされゆだねられていくという体験が続く中で、本当の自分自身に真っ直ぐに向き合っていける。そして、それを、たくさんの方と分かち合える喜び。

 

 

けれども、同時に、何度か続いたお声で、

・ringoさんに依存しているのではないかと不安です

・わたしはringoさんになんとかしてもらおうと思っているかもしれません

というものもありました。笑。

なんというか、無邪気、無垢、という感じを感じました。笑

あ、あと、

・わたしはringoさんのエネルギーを奪ってるのではないかと心配です

・わたしはringoさんをエネルギーバンパイアしているのではないかと不安です

ということをおっしゃった方も何名かいらっしゃって、なんというか無垢すぎて、わたしはあなたの無垢性に清められましたという感じです。笑

 

 

それで、話を戻すと、この「ringoさんに依存しているのではないか問題」というのも、他の様々な「問題・悩み・執着な願望」などと、同じような感じといえば同じですし、

「安心するための〇〇のループ」あるいは「わかっちゃいるけどできない、あるいは、やめられない」にも関連する話でもあると思うのです。

 

 

でも、この心の動きを自覚することができていて(内観ができているということです)、

そしてそのおそれや苦しみや罪悪感を感じられているということは(正当化したり抑圧しようとしたりしていないという意味です)、

「真の自己との出会い、真の自己との対話の時期」という感じがすごくするのです。

わたしは、とても神聖な雰囲気を感じるというか。

だからなのか、やはり、祈ったら、本当に驚きな喜び、というか。

最近、感動の連続です。

 

 

でも「この苦しみがどこに向かっているのか」ということを知らないまま、「逆方向の助け」を求め続けていると、「長期戦」みたいな感じになることもあります。

「日々継続して、奇跡・ギフトを受け取り続ける毎日、癒しな日々」の継続じゃなくて、

「長期に及ぶ戦争、戦争と休戦の連続」あるいは「微熱が続く」みたいな感じというか。

 

 

以前、確か、ブログに「孤独のときは神と出会うときだ」みたいなことを、書いたことがあった気がするのですが、あれは「わたし個人宛」のメッセージではなくて、「そういうもんだ」みたいな話なんですよね。

 

 

「神に依存する」というようなことも、以前ブログに書いたことがある気がするのですが、これについても複数名から、「神に依存するって、本当にいいのでしょうか?」というご質問をいただきました。

 

 

それで、

「孤独のときは神と出会うときだ」ということが、自分だけ関係がない(ringoやある特定の人々だけの話)みたいに感じる方や、

「神に依存するって、本当にいいのでしょうか?」という疑問が浮かんだ方は、

「神についてのマイ定義」を内観してみるといいと思います。

・自分は神をなんだと思っているか?どんなイメージや感覚がするか?

・自分は神の子をなんだと思っているか?どんなイメージや感覚がするか?

・自分は祈りをなんだと思っているか?どんなイメージや感覚がするか?

・神と出会うこととは、どのようなことだと思っているか?どんなイメージや感覚がするか?

・このイメージや感覚を持っていて、幸せや喜びや安心を感じられるか?そうではないなら、どのような感じを感じるか?(正しいか間違いかは一旦脇に置いて)

これを、心に問いかけて、みます。

幸せ、平安が、本来の自分自身と一致する道、だと、わたしは思ってます。

 

 

そもそも「神と神の子はひとつである」ということが原因と結果の法則ですが、これはどういうことかというと、

「すでに神の子は神に依存している」ということで、「神に依存してはならない」というのは、よくよく考えてみれば、おかしな話なのです。

これはどういうことかというと「その呼吸は、自分が制御しているのか?」ということでもあります。

もし、「自分が」制御しているなら、今から60分間ほど、呼吸を止めようと思って止めることができるはずなのです、しかも楽々と、まるで鼻歌を歌うようにして、です。

呼吸のその奥の奥の奥に、何かがあって、呼吸はその何かによるものなのです。

 

 

自我にとっては依存というのは、なんというか、脅威のようなものなのです。

実際「形あるもの」「外側」に依存したら「自我の言うとおり」みたいな感じになって、自我は「ほら、言った通りだろう」というかもしれません。

 

 

けれども、神の子にとっては「そもそも神に依存している」みたいな感じなのです。

だから心からの感謝だし、静けさの中で喜びが広がり続けていくのです。

「そもそも依存している」の「依存」の対象というのは、「形以前の以前の以前」であり「内側のその奥」なのです。

 

 

「依存しているかもしれない問題」や「わかっちゃいるけどやめられない問題」や「罪悪感を伴う欲求、執着など」などに向き合うときこそ、祈りだし、真の自己との対話だし、という感じです。

 

 

なんというか、この話を、ずっと書きたいと思っていて。

実は、今も、うまく言葉にできているかも、よくわからなくて。

でも、この話を、ずっと書きたいと思っていて、書こうと思っているのに書かなかったので、なんとなく、先に「リピーター様料金のご挨拶」というタイトルを決めてしまおう、と思った、みたいな感じです。

 

 

このループの輪っかに、神の光が、現れるのを、何度も、見させていただいて。

わたしは、年々「依存という問題、執着という問題、よく深いという問題、わかっちゃいるのにできないもしくはやめられない問題」などが、なぜか、年々、神聖な感じに感じられてきてしまっています。

だから、もう、問題扱いは、終わっているのです。

この喜びと感動を、わたしも、分かち合いたい、という感じです。

ご予約受付中のセッション・クラス

4月のセッション受付状況

※(3月5日更新)3月のご案内が土日祝満席、平日残りわずかです。

4/6スタート!グループレッスン募集開始

  • URLをコピーしました!
目次