この世界の楽しみとこの世界のものではない楽しみ

【継続コース受講中の方・お申し込みの方へ】今日2/27と明日2/28は、出張のためメールのお返事が遅くなりそうです。数日前にメールをいただいた方でお返事がまだの方も、すべて読ませていただいております。少しお返事が遅くなるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。わたしも一緒にお祈りしております。いつも一緒に祈ってくださり、ありがとうございます。

 

継続コースなどでは、自分自身と向き合い(内観、心をみる)、聖なる存在に祈りを捧げる、ガイダンスを求める、ということを一緒にしていきます。

聖なる存在、というのは、神様だったり、スピリットガイドだったり・・呼び名は色々ありますが、この辺りの「混乱」も整理整頓しながら、祈りを捧げています。

祈りで一番大切なのは、しっくりくることや、安心や、明瞭さや・・そういう感じだからです。

 

 

それで、そんな中で、セッションをしていてよくあるご質問でもあるのは、

神様を一番にするということは、

・恋愛や結婚や出産を諦めなければならないのではないか

・おしゃれや美容などを諦めなければならないのではないか

・禁酒禁煙しないといけないのではないか

・性生活とかしてはいけないのではないか

・「豪華なもの」みたいなものを、求める気持ちを、禁止しなければならないのではないか

※「豪華なもの」というのは、例えば、高級〇〇とか、富裕層な感じとか、そういう感じ全般です。

 

 

恋愛や結婚や出産などの欲望はさっさと捨て去り、

俗世間をあとにし、山に籠れってことでしょうか?

なんとか山脈に修行しにいくべきってことでしょうか?

シスターになれってことでしょうか?

・・という声がよく出てきて、場合によっては、かなり長引くこともあるので、ちょっと確認しておきたいのですが。

 

 

まず、例えば「恋愛やオシャレなどの欲望はさっさと捨て去り、なんとか山脈に修行しにいくべきってことでしょうか?」という考えが浮かんだときの、

ご自分の心の感覚を、感じてみてください。

こういった考えが浮かんだときの、ご自分の心の感覚が「じわ〜っと喜びが溢れてくる感じのもの」か「嫌な感じのものか」、

この二択だったら、どちらに近いでしょうか?

ちなみに、神様の方角は「じわ〜っと喜びが溢れてくる感じのもの」こっち系です。

エゴの方角は「嫌な感じのものか」こっち系です。

いろんな言い回し、感じ方があると思うので、言葉にすると、どうしても限定的になってしまうのですが。

神様は何かを犠牲にするようにとは求めていません、求めるはずがありません、そんな取引みたいなことをなさるわけがありません。

 

 

神を一番にする、ということは、確かに、

「外側の何かが、自分を幸せにしてくれる。外側の何かによって、自分の心の状態が左右される」ということをやめて、

「心の幸せ、安らぎ、喜び・・を一番にする」ということでもあります。

なぜなら、これは、同時に選べないからです。

二つに一つだからです。

でも、このように書くと「ええ〜!好きな人のことも、美味しい食べ物のことも、美しい夜景も、性生活も、ダメってこと?」となることがあるのですが、これはエゴの犠牲の信念を自分が信奉している、ということかもしれないのです。

なので、やはり、内観をしてみたいところです。

一人ひとりの内側に答え、気づき、解放、癒しがあるからです。

鏡の法則、投影を前提に、内観をしてみると、他にも重要な気づきを受け取ることができるかもしれません。

 

 

あと、もう一つよくあるのは、例えば、途中から、

・自分の職業が神聖じゃない気がしてきた(お金を扱う職業、大きな金額を扱う職業の方、娯楽系の方に多いかもです?)

・自分の職業がエゴな気がしてきた(問題解決系、なんとかする系のお仕事の方?)

というご質問をいただくこともあります。

これも、この記事の話に関連するかもしれません。

 

 

まず「快楽主義と禁欲主義」はコインの表裏一体で同じ素材でできています、振り子のようなものです。

「快楽主義」はいけなくて、「禁欲主義」は神様的、というのは、それこそエゴのジャッジメントです。

これ、たまに、「禁欲主義」はわかってなくて、「快楽主義」こそ目覚めへの道なのだ、みたいなのが、たまにありますが、それも同じです。

 

 

こんなことをごちゃごちゃ考えて、混乱してしまう!という場合、

思い出したいのは、

ここで大事なのは「心の目的が何か?」です。

この目的がすべてです。

だから、この世界で、何をしているか?人間としてどんな好き嫌いがあるか?などは、どちらでもいいというか、ここは重要ではなくて、どちらかというと、この世界の様々を、奇跡、癒し、救いを受け取るための道具として受け取っていく、という感じです。

これを書くとまた、

「今の仕事をやめて、ライトワーカー(スピリチュアルや心などのお仕事)になれってことでしょうか?なったほうがいいのでしょうか?」とおっしゃる方もよくいらっしゃるのですが、

誰もそんなこと言っていませんし、

わたしの感覚としては「光を運ぶ(ライトワーカー)」は、どんな職業をしていても、どんな趣味嗜好があっても、何を行なっていても、可能です。

しかし、このわたしの感覚の「ライトワーカー」という言葉を使ってると、みんなと話が通じなくなっちゃうので笑

みんなの言葉に合わせることにします。

 

 

たったひとつの聖なるものだけを目的にする。神を一番にする。神だけをゴールにする。

これを、世界中すべての人々(これから生まれてくる人、すでに死んだ人含めてすべての人々)のために心に決めたものが、

この世界で好きだと思う何かや、ときめく何か、感動する何かをもぎ取られ、所持品を削ぎ落すよう命じられ、

お金にも困る、みたいなことが、あると、本気で、思っているのでしょうか?

聖なる目的を選択する者が、この世界で不自由を強いられるとか、神が自分の元に帰ってこようとする愛しい我が子(神の子)に対して不自由や試練を与えるとか、本気であると思ってますか?

もし、本気で思ってる、と言う方がいるなら、その「神」は神じゃなくてエゴの可能性はないでしょうか?

 

 

神は、平和でもあり平安でもありますが、喜びであり幸福であり甘美でもあります。

あまりにも甘くて、幸せすぎて、心地良すぎるので、奇跡を受け取り続ける中で、確かにだんだんと、「これが欲しい、これが必要」みたいな気持ちは薄らいでいきます。

それでも、この「これが欲しい、これが必要」本気でゼロになるまで、たくさんの具体的な愛の体験、奇跡の体験、癒しを受け取っていくのです。

ちなみに、わたしは刺激を求めちゃう系でしたが、今は、奇跡以上の刺激的、スリリングな体験はないと思ってます。これ以上のワクワクは、ないですよ笑

実家(神が待つ場所)への帰り道は「幸せな夢」です。

 

 

この辺りの、混乱だったり、違和感だったり、「なんかよくわからないな」みたいな感じだったり、

願望や欲求や期待を持つことへの罪悪感や執着があったりする、という場合は、

心をよくみて、目的をはっきりすること。

最初は、ブラックやネガティブやドロドロネバネバが出てくるかもしれませんが、その奥にある、

自分の中にある目的と、「たったひとつの聖なる目的」が一致しているところまでよくみること。

これを、頭で、顕在意識で思うのではなく、心の奥のそれ、その目的とつながること。

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