以前「出かける」とか「街へ出よう」というようなことをブログに書いたのですが、そのことについて。
このことについて「ええ〜(気が重い、めんどくさい)」となった方もいらっしゃると思う。
それを、ただ、尋ねてくださったクライアントさんが何名かいて・・という話の続きです。
それで、この「めんどくさい問題」なのですが、
わたしも「めんどくさい」は何度も経験がありますが、
これは抵抗の一種で、「呪縛が断ち切られようとしているサイン」みたいな感じなのです。
これを具体的に書くと、また、話が逸れてしまうので、脇におきます。笑
本題は、なぜ、今、出かける、なのか。
なぜ、街へ出よう、なのか、です。
これは、わたし自身、数年前(「コロナ禍」が終わるちょっと前くらいから)から受け取っていることで、
その結果見えてきたものがある、というものでもあります。
もちろん、文字通り「街に出かける」というよりかは「人と関わっていく」「人の中の光と繋がっていく」という雰囲気です。
「情報」は、今、とても簡単に、手に入ります。
お家の中にひとりでいても「暇をしない状態」も、簡単に手に入ります。
スピリチュアル・心系、自己啓発、成功する系・・なども、たくさんの情報があり、情報を受け取りやすくなっています。
無料でも有料でもです。
それで、実践も、しやすくなっていると、思います。(※内観や祈りに限らず、です)
実践したり、情報を知っていく中で、疑問が生まれても、その疑問に対する答えも、すでに誰かや何かが答えてくれていたりする。
こういった状況を踏まえて、現時点で、みっつ、浮かんでくるものがあります。
ひとつは”超感覚的”なものが開いてくる。
これは、特に、内観とか心と向き合うとか、自己との対話とか、マインド(価値判断)の浄化とか、
そういう系を実践していると、感覚が開いてきます。
いろいろあるでしょうが、例えば、不思議体験、シンクロ、すべて繋がってる感じがする・・というような体験です。
これは「普通のこと、みんなそうなる感じのこと」ということで、特別なことではありません。
本来の自分自身に戻るとは、そういうことです。
こうなると、ますます、「情報の引き寄せ」「疑問に思ってたことの答え」は受け取りやすくなります。
そして、二つ目が、自己完結、です。
「自己完結」。
「知ってる、わかってる」というような抵抗。
「一人でできるもん」的な状態。
「独身貴族」的な状態。
ひとりでも退屈しない時間を作りやすくなって「現状に満足」「特に不満がない」と、錯覚しやすくなってる。
自ら「ひとりの時間を好む」となって、それに満足していると錯覚して、孤独感やさみしさ、ネガティブ性を直視しにくくなり、抑圧されやすくなる。
みっつめは、出費が多い、です。
抑圧された、孤独感やさみしさ、劣等感、不安、恐れなどを、直視しないまま、それを紛らわすために、お金を使っちゃうので、出費だけが増えていっちゃう。
いわゆる「投資」な感じじゃなくて、「多すぎる消費、浪費」な感じ。一時的な満足。
意志ではなく、気分で動いちゃう場合、そして、力が外にあると思い込んでいる場合(自覚がない、手放してない、自分で自分を騙している場合)。
でも、こうして問題を感じても「問題解決のための情報やサービス」はたくさんあるので、
ますます、自分でなんとかできそう(自己完結)な罠にハマっちゃう。
けれども「本当に心が満たされる体験、喜ぶ体験、奇跡の体験」というのは、
「人と人との関わり、日常生活」の中で、”行われる”ものです。
この”行う”というのは、自分の心の向きが0.1、残りの0.9以上は神聖性が行ってくれます。
ここにおいて「奇跡の体験、具体的な体験」がある。
ここにおいて「豊かさ」というものは、広がっていく。
ここにおいて「神の力」というものを、感じていくことになる、体験していくことになる。
内観や祈りは「奇跡を見にいくための準備運動」「”エゴの恐れの決めつけ”が取り消されていることを見にいくための準備運動」みたいな感じでもあるかもしれません。
その上で「愛されていることを見に出かける」「受け取った直感に思い切って従ってみる」
「人、というよりも、人の中にある光とつながりに、会いにいく。光を受け取りに行く」のです。
抵抗があることほど、愛の奇跡が待ってる、ということです。
めんどくさいとか、嫌だとか、気が重いとか、
いろいろ理由つけて後回しとか、「〇〇になってからこうする」とか、
「こうすることがいいことなら、〇〇というサインを受け取るはずだ」とか、
こういう思考や重い感覚が出てくるものほど、「まっさらな心」と頭で唱えながら、行動することで、除霊、みたいな感じです。笑
普段自分がやり慣れてること、すでにサクサクできるものは、元々「おばけ」がいないので、除霊になりません。
「やりすぎてしまってることを、やめる」は、おばけがいるかもしれません。
いずれにせよ、おばけがいたら、抵抗があるはずです。
めんどくさいもの、嫌だというもの、気が重くなるもの、思考が大騒ぎして「やめとこう」ってなるものほど、です。
さらに、これを「自分が正しいと言い張るため、自分の計画通りに推し進めるため」みたいな感じで動いても「期待外れ」となるだけなので、
「まっさらな心」なのです。