あの頃、わたしが望んでいたのは何か?

これは、最近シンクロしてることでもあり、ブログに書きたい、と思った。

 

 

これは旧ブログに書いていたことでもあって、記憶にある方もいらっしゃるかもという話だけど、現時点のわたしの視点から、もう一度、この話を書いてみたいと思う。

 

 

わたしは、あるとき、恋をした。

とても好きだったけど、とても苦しい恋だった。

わたしは映画を見るのが好きで「愛している」というセリフを聞くと、わたしもそんなふうに言ってみたいし、言われてみたい、と思った。「胡散臭い」「嘘くさい」と思う反面、とても、憧れていて、とても、欲していた。

自分の心の中を見ると、それは、とても苦しいものだった。

怒りや、嫉妬や、妬みや、僻みや、憎しみや、恨みのような感情、思考が出てきて、わたしはすぐに「自分のことが嫌だ」と思った。

 

 

でも、とても恋しくて、とても苦しかったので、わたしは心と向き合うことにした。

とても恋しくて、とても苦しいとき、わたしの元に現れた「救命ボート」は「心と向き合うように、心を癒すように、心にすべての力がある」「外側は内側の反映である」というようなことを言っていたからだった。

それで、自分は何を考えているのか、とりあえず、ぐちゃぐちゃに重たくなったリュックサックの荷物を全部出すつもりで、ノートに書き出してみることにした。

すると、怒りや、嫉妬や、妬みや、僻みや、憎しみや、恨みのような感情、思考ばかりが出てきた。

それでも、もう、そうするしかないので、ただただ、そのドロドロしたものを、ノートに書き出し続けることにした。

まるで、ゾンビが叫んでいるかのようだった。

相手をコントロールしたい気持ち、支配したい気持ち、操作したい気持ち、そういったものがどんどん出てきて「それをみるのが、とても嫌だ」ということが続いた。

リュックサックの中から「腐ったおにぎりが出てくるのを認めるのが嫌だ」ということと、ほとんど同じ意味だと思う。

何ヶ月も苦しかった。

 

 

そうして、ノートに書き出し続けていると、

「好きな人を、もの扱いしている」

「好きな人を、こんなに好きだといって、結婚したいとまで言っている人に対して、自分の必要を満たすためのもの扱い、おもちゃ扱いしている」

ということに気づいてしまった。

わたしは、ここで、ものすごい罪悪感を感じた。

罪悪感すぎて、思考が停止してしまった。

ノートを書き続けている間は、まだ「なんとかしよう」という気力というか体力というか、ガッツというか、そういうのがあったかもしれないけど、

「好きな人を、もの扱いしている」

「好きな人を、こんなに好きだといって、結婚したいとまで言っている人に対して、自分の必要を満たすためのもの扱い、おもちゃ扱いしている」

これに、気づいてしまったとき、罪悪感すぎて、ある意味思考がうまく働かなくなり、ある意味力が抜けてしまった。

罪悪感すぎて、もう、ジタバタが、できなかった。

そのあと、どうなったか、言葉にできない。

 

 

そして、そのしばらくしたあと、わたしは、愛したい、と思った。

好きな人を、本当に、大切に思いたい。

愛というものが、何なのか、わからないけど、愛したい。

もう今までのように条件付きの愛を愛のように、自分を騙したり、誤魔化したりは、したくないと思った。

無条件の愛というものを差し出したい。

愛というものが、なんなのかわからないけど。

無条件の愛というものが、なんなのかわからないけど。

差し出すというのがわからないし、わたしは何もできないけど。

どうしたら、いいかわからないけど。

「わたし」が、無条件の愛、というものに、ふさわしくありたい。

「わたし」が、無条件の愛と、同質ものもでありたい。

それが可能なのか、不可能なのか、どうするのか、まったくわからないんだけど、ただとにかく、「愛したい」と思った。

本当に純粋な愛でありたい。

そう思ったら、心が喜ぶのが感じられた。

「本当に純粋な愛でありたい」「愛したい」「無条件の愛だけを差し出したい」そう思ったら、嬉しくなった。

 

 

「本当に純粋な愛でありたい」「愛したい」「無条件の愛だけを差し出したい」

それが、可能なのか、不可能なのか、どうするのか、まったくわからない。

でも、「本当に純粋な愛でありたい」「愛したい」「無条件の愛だけを差し出したい」そう思ったら、わくわくするし、そんな自分のことは「嫌いだ」とは、全然感じなかった。むしろ、そう思えるということが嬉しかった。

そうして、嬉しい気持ちでいっぱいになっていると、

「本当に愛しているなら、彼が他の女性と結婚して、幸せに暮らしているのを実際に目撃しても、心から喜んで祝福できるはずだ」

という考えが浮かんだ。

その考えに、最初は、もちろん「嫌だ、できない・・」と思った。

でも、すぐに、「わたしが望んでいるのは何か?」という問いが浮かんだ。

すると、少し前に、浮かんできて、わたしを嬉しい思いでいっぱいにした、

「本当に純粋な愛でありたい」「愛したい」「無条件の愛だけを差し出したい」

この思いが思い出された。

 

 

「本当に純粋な愛でありたい」「愛したい」「無条件の愛だけを差し出したい」

こう思うと、ただ単純に、わたしの心が安心して、幸せで満たされるのを、感じられた。

 

 

あるときから、わたしは、

「好きな人と両想いになって、結婚すること」が目的ではなくなっていた。

「本当に純粋な愛でありたい」「愛したい」「無条件の愛だけを差し出したい」

「自分が愛していると思う相手が、幸せで喜ぶとき、心から喜んで祝福できる自分でありたい」

これが、目的にすり替わっていた。

 

 

つまり、この時点で、平たくいうところの「執着がなくなった」状態になっていた。

執着が外れるというのは、目的が完全に入れ替わることでもあるのかもしれない・・とこれを書きながらふと思った。

 

 

その後「渇望して欲していたときには、手に入れることが決してできなかったものが、忘れた頃に、あの頃望んでいた以上の形となって体験する」となった。これは、この世界における、具体的な体験だった。

 

 

この具体的な体験、わたしが受け取った奇跡は、たくさんのクライアントさんが体験することで、延長していることを知らせてくれた。

 

 

 

今、解説を書くと、

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すると、怒りや、嫉妬や、妬みや、僻みや、憎しみや、恨みのような感情、思考ばかりが出てきた。

それでも、もう、そうするしかないので、ただただ、ノートに書き出し続けることにした。

相手をコントロールしたい気持ち、支配したい気持ち、操作したい気持ち、そういったものがどんどん出てきて「それをみるのが、とても嫌だ」ということが続いた。

リュックサックの中から「腐ったおにぎりが出てくるのを認めるのが嫌だ」ということと、ほとんど同じ意味だと思う。

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↑これが全部エゴ。まさに浄化のとき、という感じです。

 

 

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「好きな人を、もの扱いしている」

「好きな人を、こんなに好きだといって、結婚したいとまで言っている人に対して、自分の必要を満たすためのもの扱い、おもちゃ扱いしている」

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↑これは、まさに、エゴそのものです。

わたしは、自分のことをエゴだと思っていたので、苦しかったわけです。

自分=エゴだと思い込んでいる状態が、エゴと同一化している状態。

でも、わたし=エゴ、とかじゃない。

 

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これに、気づいてしまったとき、罪悪感すぎて、ある意味思考がうまく働かなくなり、ある意味力が抜けてしまった。

罪悪感すぎて、もう、ジタバタが、できなかった。

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エゴが自分じゃないからこそ、罪悪感を感じていたのです。

罪悪感というのは「これは、わたしじゃない」というサイレン。

この罪悪感という、この上ない不快感から、目を背けず、感じる、ということを、自然と、していたので、

「ある意味思考がうまく働かなくなり、ある意味力が抜けてしまった」「もう、ジタバタが、できなかった」という「ゆるし」の状態に導かれていた。

「自然と」「導かれていた」「導きに従っていた」そんな状態だった、と、今、あえて、言語化するなら、そうなります。

 

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そのあと、どうなったか、言葉にできない。

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罪悪感の裏で待ってるのが「真の治療薬」。それに触れた、ということだと思います。あえて言語化するなら。

 

 

罪悪感というのは、この上ない、痛み、不快感です。

絶望感や、恐れ、欠乏感、惨めさ、無価値感、孤独感・・そういったものも、この上ない、痛み、不快感です。

ジタバタすると(なんとかしようとすると)「苦痛」みたいな感じになります。

だから、エゴは「そんなもの感じないように」「内側を見ないように」と言います。

でも、この内側を見ていくときの痛みというのは、まさに、エゴが剥がれ落ちていっているということで、

光が漏れ出ているときの感覚なのかもしれない、と、そう思います。

 

 

それで「罪悪感を感じられない」というお話も、時々お聞きするのですが、

これは、二つ考えられます。

(1)罪悪感を罪悪感と認識できていない。罪悪感を感じているけど、感じていない感じがしている。罪悪感を感じていることを忘れてる(解離)

(2)投影している

などです。

(1)は、もう、これはこういうもんだ、みたいな感じで、内観を続けていくうちに、どんどん、一致してきます。

(2)も、ある意味、これはこういうもんだ、みたいな感じです。笑

なぜなら、罪悪感を感じないため、認めないためにするのが、投影だからです。

エゴは、この罪悪感を感じないための投影を「自分の身を守るためなんだ」と言いますが・・うーん、自分のリュックサックの中にある腐ったおにぎりから発せられている異臭を、隣の人のせいや環境のせいにして、「隣の人にクレームを言ってあげる」「引っ越せば解決する」と考えることが「自分の身を守るためなのか」と考えると、どうかしら、という感じです。

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