ちょっと、たとえ話を書きますね。
ちょっと思い浮かべてみてください。
某ジュエリーブランドの指輪と、その指輪ケース。
そう、もう、とにかく、めちゃくちゃ、すごいのを、想像してください。
この世のものではないような輝きを放つ指輪です。
そういう感じの、某ジュエリーブランドで指輪を買えば、指輪のケースは、セットでついてくるでしょう。鑑定書や袋なども、一緒に渡されるでしょう。
それで、パートナーから、「(めちゃくちゃすごい)指輪と、その指輪のケース、どっちか一方だけを、あなたにあげたいとおもっているけど、どちらがいいかな?」と言われたら、どちらがほしいですか?
指輪か、指輪ケースか、どちらか一方だけ、です。
究極の選択です。あり得ない状況でしょうが、ちょっと、想像してみてください。
あなたの答えは、もう、言うまでもないはずです。笑
へそ曲がりさん以外は、指輪の方がほしいと、答えてくださるでしょう。
それで、何が言いたいかというと、
具現化とか、現実創造とか、願望成就とかの、物理的体験、形ある方に、焦点を当てたり、望んだりするというのは、
指輪じゃなくて、ケースの方に、焦点を当てたり、望んだりする、みたいなかんじなんです。
だから「物理的願望を望むこと(=ケースを望むこと)は欲深いことですね」とか、そういう話じゃない。笑
某ジュエリーブランドに指輪を買いに行ったら、指輪ケースは、とくに何も言わなくても、渡されるでしょう。
もちろん、こちら側が「絶対にケースはいりませんので」と、強く拒めば、無理矢理押しつけてくるということも、ないかもしれませんが。
指輪と指輪ケース、ある意味セットです。
それで、具現化とか、現実創造とか、具体的な願いが叶うとかの、物理的な方、というのは、この指輪の、ケースの方、です。
指輪じゃなくて、ケースの方。
だから、ここを語っても仕方ないというか。
語るほどのことがないんです。
指輪と一緒についてきてるから。
だから、引き寄せの法則や、願い事リストを書いたり、ビジョンボードを作ったり、イメージングしたりすることが、悪いとか、ダメだとか、そういうわけじゃない。
ある時期においては、こういったワークをすることによって、「あれ?もしかしたら、わたしは、すでに指輪を持っているのかもしれない?」ということに気づくきっかけになると思う。
あるいは、「わたしが、ほんとうにほしいのは、ケースってわけじゃないかもしれない?」と、立ち止まれることもあるかもしれない。
だから、こういったことが、もちろん、悪いとかじゃないんだけど、あるとき、卒業するときが、くるかもしれない。
でも、なにかが終わるとき、何かがはじまる。
「ほんとうにだいじなものだけ、それだけを、見つづけます」というコミットは、おわりのはじまりのとき。
どういうわけだか、わたしたちはみんな「ケースの方がほしい!」と、求め続けてきた。
「指輪じゃなくて、ケースのほうがほしいのだ!」と、必死になって探し求めてきた。
「指輪なんて、そんなもの、いらないんです!ケースがほしいんです!」と、叫んできた。
なんか、もう、かわいいじゃないか。
それで、「ケースが手に入る」ということもめずらしいことではなく、でも、一瞬はうれしいかもしれないけど、「なんか違う?」とか「まだ、もっともっと、ほしい(渇望)」となる。
「思ってたのと違う」とか「もっと、ほしい=なにかが足りない」となるのは、ほんとうはケースがほしいわけじゃない、と、心のどこかでは、わかってるからじゃないだろうか。
ここを、よーくみたら、もう、ケースのことなんてどうでもよくなることに、薄々気づいてるんじゃないだろうか。
そはいえ「この世界に生きている」以上、指輪とケースはセットで、もっと、正確にいえば、この指輪は、あなたの指に、すでにはめられていますよ、ということです。
「それに、気づきませんか?」という話をしたいのであって、
そのための方法として、「手元を、裁かずに、問題視せずに、分析もせずに、よく見てみる」みたいな方法がある。笑
それでも、わたしたちは、裁くことにあまりにも馴染みすぎてしまっているので、「咎めをしらない無条件の愛である神様に、一緒に手元をみてほしいと頼む」ということをしたりする。笑
瞑想は、やはり、すごくいいとおもう。笑
たとえるなら「指輪がほしい、それが、すでに与えられることを認識できるように助けてください」と求めるのが、祈りみたいな感じで、指輪を本気で求めたら、
なぜか、次の日、引き出しの中にケース(=自分がほしいと言い張っている方)を見つけたりする。
そのとき、指輪を認識するのか、しないのかは、そのときどき、それぞれだけど、神様はなんどでも答えてくださる。
何度も求め、答えを受け取りつづけているうちに、指輪のことを、否認できなくなる。
それで、よくあるのは、
「そう言われても、やはり指輪なんかよりも、指輪ケースのほうが価値があるとしかおもえないので、自分の指を見てごらんと言われると、自分が大事にしているものを取り上げられている気がする」とか、
「じゃあ、あのケースを探し求めていたあの年月はなんだったっていうのよ!全部無駄だったってこと?」とか、
そういう考えが湧いてきて、「やはり、ケースのほうがほしい」となる、ということ。
でも、何をどう感じようが、指には、ずっと、ダイヤモンドの指輪がある。
ケースだって引き出しの中にある。笑
だからもう、これは、時間の話だな、とおもう。
きっとこれからの体験は無限に広がるし、このことを実感しはじめた頃、「ケース探しの旅をしていたあの頃、実は、無限の体験を受け取っていた」ということも思い出すでしょう。
過去のあの頃、認識できなかったものを、思い出しはじめるという経験は、誰もがする。
本当に探していたものは、ずっと、所有していた、ということ。
「所有したい」というのは、「所有していない」とか、「少しは所有しているけど足りていない」とか、「自分にはそれがふさわしくないんじゃないか」とか、そういうことを言ってるのと同じこと。
そうじゃなくて、すでにずっと永遠に所有している。
それをただ認めればいいだけ。
そして、この「もうあとは、認めるだけ」みたいな時期にあるときほど、絆創膏でぐるぐる巻きにして引きこもろうとする、ということをしたりする。
それでも、永遠の輝きは、そのまま保たれている。
奪われることも、失われることも、ほんとうは、ありえないことだった。