今の自分の感情、感覚、この感じ、を、ただ、ただ、そのまま、認めていく。
ただ、認める。
どうこうしようとしない。
押さえ込もうとしない。
相手をなんとかしようともしないけど、自分のこともなんとかしようとしない。
「尾ひれ背びれをつける」みたいなことをしない。
展開させていこうとしない。
そうじゃなくて、ただ、今の自分の感情を認める。受け入れる。感じる。
・・・たったこれだけのこと。
たったこれだけのことが、ほんとうに、ほんとうに、だいじなことだと、わかっているのに、とても難しくなってしまっているから、
一つひとつ、一個一個、大事に、練習していきたい。
(あえて)うさぎではなく亀を目指して、練習していきたい。
「その小さな、小さな、積み重ね以上のものは、ない」という。
今日は、
「今の自分の内側で感じている、感情、感覚、この感じ、を、ただ、ただ、そのまま、認めていく」
このことの重要性を、思い出させてもらった。
希望と喜び、優しさ、無限の可能性に満ち溢れた感じで・・・思い出させてもらった。
本当にありがたいことです。
ありがとう。
奇跡講座で「愛ある想念と助けを求める懇請」という言葉が出てくる。
「聖霊か、自我か」の二種類しかない。
「愛か、恐れか」の二種類しかない。
「愛ある想念か、助けを求める懇請か」の二種類しかない。
その、二者択一。
動機の解釈として意味をなすものは、一つしかない。そして、それは聖霊による判断であるから、あなたの側では全く何の努力も必要としない。愛ある想念はどれもみな真実である。それ以外のすべては、どのような形をとるにせよ、癒しと助けを求める懇請である。助けを求めて哀願する兄弟に向かって誰かが怒りを持って応答するなら、それを正当化できるだろうか。(T-12.I.3:1-4)
聖霊は、他者の中の愛ある想念だけを受け入れ、それ以外の一切は助けを求める懇請と見なすようにと教えたことにより、恐れそのものが助けを求める懇請だと教えたのである。これが、恐れを認識するということの真の意味である。あなたが恐れを守ろうとしなければ、聖霊は恐れを解釈しなおしてくれる。それが、愛を求める呼びかけとして攻撃を知覚するよう学ぶことにおける究極の価値である。(T-12.I.8:7-10)
エゴというのは、恐れであって、恐れというのは、助けを求める懇請である・・
「愛ある想念か、助けを求める懇請か」の二種類しかない。
ここを、ほんとうに、すぐに、忘れてしまう、と、思った。
恐れを自覚したとき、癒しと助けを求めている、ということを、すぐに思い出したいと思った。
この、自分の中の恐れに基づいた感情が出てきたときに、なぜ、すぐに蓋をしてしまいたくなっていたかというと、
その恐れの声は、助けを求めているし、癒しを求めているし、愛(それも完全なる愛)を求めている、というところまでは、なんとなく薄々、わかるんだけど、(A)
でも、その、欲している、助けや癒しや愛(完全なる愛)が、ないのではないか、と思うと、絶望的な気も、なんとなくある感じがして、(B)
この(A)や(B)を「よくみてみる」ということをせずに、いたんじゃないかと思ったことがあったことを、今思い出した。
でも、少しずつ、体験を積み重ねていく中で、
本当に、ただ、祈ればよかったんだ、すぐに助けを求めればよかったんだ、それだけでよかったんだ、という確信が、少しずつ、育まれていく。
たしかに、最初は、こわいし、わけもわからないし、確信もない。
「すべてを犠牲にすることになるのではないか」とか「損をすることになるんじゃないか」とか、いろんな考えが出てくることがある。
それでも、もう、その、ドロドロに見える中に、わからないまま、光と共に沈み込んで、わからないまま、祈る、
「光と共にいる感覚」や「心から祈っている感覚」なども、ないまま、あるのかないのかよくわからないまま、「これは不純な動機かもしれない」という思いを出てこさせるままにして、祈る。
すると、体験を受け取る。
わたしは、あるとき、朝から昼過ぎまで「気が重いような、空虚なような、なんか嫌な感覚」を抱えて過ごしていた。
「その理由」というのも、よくわからなかった。あるといえばあるけど、ないといえばない、みたいな感じだった。
昼過ぎごろになって、やっと「神様に助けてもらおう、祈ろう」ということを思い出して、祈った。
神様 この嫌な感覚を奇跡に戻してください。あなたの感じ方で感じさせてください。この嫌な感覚ではなくて、平和を感じたいです。
そのように助けを求めたら、その瞬間、身体の中心から家中に・・世界中に・・、ゆったりどっしりとした寛ぎのような心地の良い感覚が満たされていて、
あまりにも、「今すぐ、簡単に、一瞬で」だったので、笑ってしまった。笑
またあるとき、どうしても「絶対にこうじゃなければならない」ということを、言い張りたい、譲りたくない、というジャッジメントが出てきて、心が苦しくなったことがあった。
ゆるせない苦しみ、ゆるしたくない苦しみ・・のような感じだった。
それで、あるとき、光が差したようにして、「わたしは癒しと助けを求めてるんだった」ということを思い出して、癒しと助けを求めて、祈った。
すると、ある人のことを思い出して、どうしても会いたくなった。
もともと、ずっと「会いたいなぁ、なにしてるかなぁ」と思っていた人でもあったけど、ずっと、その声を、後回しにしつづけてきていた、という人でもあった。
祈ったあと、「会いに行かなくちゃ」というほど、自分の中で、はっきりとした感覚になっていた。
「でも、あの人は忙しそうだし」とか「急に連絡するなんて、なんか変な感じだ」とか「いきなりこんな話しても、変かもしれない」とか、そういう「考え」が浮かんできたけれども、もう、その「考え」につきあってるメリットは一つもないって感じだった。
それで、その人に会いにいき、話を聞いてもらった。
そして癒やされた。さらに、「わたしが癒された」だけではなく、なぜか、お相手の方からも「癒やされた」という言葉をいただいて、さらに癒やされた。
ここでいう「癒やされる」というのは、「苦しい状態から、楽な状態になる」というよりも、
「まるで、自分が隠していた光が引き出されたようにして、元の自然な状態に戻った。そして、ほかの見方に心を開くことができるようになっていたことに、しばらくしたあとで、何かの節に、ふと気づいた」と言った方が、しっくりくる。
ほかの言い方をすると「すごく元気になった、やる気が出てきた」みたいな感じになった。
同時に「こんなことやっても無駄かも」と思っていた、あることが、とても希望にあふれたものに思えて、行動に移してみることができていた。
インスピレーションというのは、行動力、勇気、やる気みたいなものだな、ということを、再度実感した。
「こんなことやっても無駄かも」と排除してきた「何か」というのは、その「絶対にこうじゃなければならない」ということとは、一見、全然、関係のないことだった。
なにが、どうつながってるか、ほんとうにわからない、とおもった。
その人は、ただ、話を聞いてくれていた。このことは、わたしにとって、救いだった。
「助けを求めている」というとき、「相談する相手は選びましょう」みたいな話をよく聞く。
神様はちゃんと、誰に会いに行けばいいのかを、わかっていて、
「わたしがその人を思い出す、ずっと気になっていて、会いたいと思っていたことを、思い出させる」
という形で、わたしを、導いてくれた。
神様は、嫌なことを、無理やりさせるのではなく、楽しい感じで、導いてくれる感じがする。
でも、「じめじめした暗い部屋から動くたくない」というわたしの背中は、押してくれる感じがする。
そうこうしているうちに「絶対にこうじゃなければならない」ということについては、エネルギーを注ぐことを、すっかり忘れてしまっていた。
そうして、ゆるんだ頃、「絶対にこうじゃなければならない」を投影していた誰かに対して、心から祈りたい、と思い、祈り、奇跡を受け取った。
おそれを隠して、大丈夫なふりをする、ということをやめて、
「エゴ=恐れ=助けと癒しを求める声」に正直になっていきたい、と思った。
そうすることで、みんなの中にある愛ある想念だけを、見ていきたい(なぜなら、それは、こんなにも幸せなことだから)と思った。
このことを忘れたくないので、ブログに書いた。