昔、「願い事手帳」という本を読んで、試しに書いてみたら、おもしろいほどに、みるみると、叶っていった・・ということがあった。
今でも覚えている感覚なんだけど、この経験によって、
わたしは、自分が思っているような自分じゃないのかもしれない?
というような感じのことを思った。
願い事以外にも、「目に見えない世界」について、学んだり、実践したり、体験したりしていく中で、
わたしは、自分が思っているような自分じゃないのかもしれない?
世界は、自分が思っているよりも、はるかに、楽しくて、優しくて、幸せな場所なのかもしれない?
みたいな、そんな感じのことを、思った。
でも、この頃のわたし、この頃までのわたしは、もう、自己否定・惨めさ・劣等感・罪悪感・絶望・おそれ・身が引き裂かれるようなさみしさ・・こういったどん底を、これでもかというほど、長い間、味わいつづけてきた。
それで、今思えば、「この頃までのわたしは、もう、自己否定・惨めさ・劣等感・罪悪感・絶望・おそれ・身が引き裂かれるようなさみしさ・・のどん底を、これでもかというほど、何年も、味わいつづけてきた」←これが、あまりにも、大事だったんだなぁ、ということです。
ネガティブな感情も、そのままを、ただ、感じる、みる、なんとかしようとしない、みたいなことです。
これは、経験則だけで書いているのではなくて、いろいろ理論的なところを学んだ上でも、言えることです。
あの頃・・
わたしは、自分が思っているような自分じゃないのかもしれない?
世界は、自分が思っているよりも、はるかに、楽しくて、優しくて、幸せな場所なのかもしれない?
という、「いい意味での疑い」を、持つことができたので、願望成就とか、願い事リストとかも、わたしは、悪いとか、だめだとか、思っていない。
でも、これは、「ステップ」みたいな感じだと思っています。
だから、どうしても「願いを叶えたい」という方がいらっしゃって、それ以外に聞く耳が持てない、ほかの可能性に心を開くのがまだまだこわいという方がいらっしゃるなら、わたしはもう、願い事手帳の本を買って読んでやってみたらどうでしょう、としか、言えない。
たぶん、叶うとおもう。でも、ぜんぶじゃないかもしれないし、しばらくしたら、「超えられない壁」みたいなのはくる可能性は高い。笑
それで、なんか壁を感じるなら、潔くすべて手放して、もう、次のステップに促されている可能性を、視野に入れてみたらどうかと思う。
これも、無理だというなら、夢も希望もないかもしれないけど、「具体的な努力、普通の努力をするしかない」と言いたくなる、わからないけど。笑
それで「次のステップ」かもしれない可能性に心を開きはじめているのであれば、それは、とても素晴らしいこと。
あとは、どんどん、簡単になっていくとおもいます。
もしかしたら、悩むことがなくなる、問題がなくなる、「どうしても叶えたい願い」がなくなる・・ということを、自分が嫌がっていることに気づくかもしれない。笑
ちなみに、わたしはもう「悩みを解決したい」というのも「問題を解決したい」というのも「願いを叶えたい」というのも、おなじにしかみえなくなっています。
そこで、アインシュタインの名言
「問題は発生したのと同じ次元では解決できない」
を、思い出す。
つまり、
「願望が発生したのと同じ次元では叶えることはできない」
みたいな。
だから、奇跡が必要なのです。
奇跡というのは、物事を違った見方で見ると決めることからはじまります。(奇跡講座をベースにして話してます)
この次元(問題やかなわない願いなどを持っている次元)の見方ではない見方で見てみたいと、本気で、望む、みたいな感じです。
別に、「今の自分の見方が、悪い、劣っている、だめだ」とかじゃなくて、むしろ、そのような自己否定を手放すことによって、
もともと、備わっている、というか、本来の自分自身そのものからの見方で、みてみたいと望む、
まっさらな心の目でみることを望む、
「純度10000%の”スピリットとしてのわたし”」の見方でみることを望む、
みたいな感じ。
必要とされてるのは、この「望む(奇跡講座ではわずかな意欲と書かれている)」のところ。
「問題は発生したのと同じ次元では解決できない」(アインシュタイン)
そして・・
「願望が発生したのと同じ次元では叶えることはできない」・・
これは、ほんとうにそうだとおもうし、「これは真理なのかどうか?」というよりも、ちょっと、じっくり、思いを馳せてみると、
「なんか、そうな気がする」と思うかもしれないし、
「普通に考えてそうだわ笑」と思うかもしれない。
これは、別に、理論物理学の話じゃなくても、日常的な問題や悩みや願いについても、言えることだと、感じられるかもしれない。