そもそも自分を愛するとは?
愛するとは?
癒されていくともいえるし、癒やすともいえるし、
大切にするともいえるし、
自分の声に、なんのジャッジも決めつけも偏見も挟まずに、ただ寄り添っていくこと、認めて、受け入れていくこと、ともいえるし、
どんな自分も無条件にゆるす、ともいえるし、
あたためていくともいえるし、
素晴らしい奇跡(喜び)の体験を重ねていく、受け取っていく、ともいえるし、
自分の「ほんとうの声」に従っていくともいえるし、
。。。。。。。。
たとえば、これはひっくり返すと、
自分が深く傷ついている(自分が自分を傷つけてきた)ということを、ほんとうに、痛感するというか、思い知るということでもあるし。
これ、痛感したら、傷つけることが、ある日、すんなり、止まります。
たとえば、
「どう考えても、この状況では、わたしは可哀想だし、被害者でしかない」というような状況だとしても、
「どう考えても、相手が間違っているとしか思えない」というような状況だとしても、
それを引き寄せたのは自分であって、
相手”自分で書いた「台本」を渡して読ませた”のも自分であって、
相手にそう振る舞わせたのも自分であって、
ということになります。(この部分を、ゆるす、愛する。ゆるされている、愛されている、祈りをつづけていく)
これが、現実創造、とか、創造主、とか、引き寄せの法則、とか、内側に原因、というところでいうと、そうでしかない、ということになるし、
心の自立(経済的自立とか、物理的自立というよりも、心の、自立)ができている状態、ともいえるでしょう。
これが「自分が監督であり脚本家であり」ということです。
心の自立ができている、ということは、
自分を尊重できているということでもあって、それは、自動的に、相手を尊重できているということでもありますし、
「表面的なつながり」ではなく、「深いつながり、ほんとうのつながり」ということでもあります。
広く、深い、つながりは、さみしさも、あるいは、人を拒絶したり、選別・選択したりして関わることも、忘れさせていく。
忘れさせていく。
夕焼けを見てさみしくなったり、旅から戻ろうとするときに、さみしくなることはあっても。
だから、ひたすらに、自分を愛していく。あたためていく。
これまで、厳しさの中にあった人ほど、「ほんとうに、それでいいんですか」みたいな話です。
その「ほんとうに、それで、それだけで、いいんですか」を、
あまりにも恐れていたり、拒絶したり、自信がないといってみたり、することはあります。(これがエゴのお仕事です)
条件付けの愛を、ほんとうに、ほんとうに、取り消していく(取り消してもらっていく、うちなる存在に)。
この条件付けの愛を、完全に、消していくことは、もう、あまりにも重要です。
そんな中で、それぞれの人が、それぞれのかたちというか現れ方というか体験を通して、奇跡を重ねていきます。
あるとき、マーラに唆され、寄り道をしたとしても、奇跡はいつでも、そこで待っていてくれています。
なので「なんでまだ叶わないの、早く」とか「期限がいついつまででやばい」じゃないです、待たせているのは、わたしたちのほう、です。
だから、ほんとうに、安心して、集中して、「ほんとうに、それだけで、そんなことで、いいんですか」みたいにして、自分をケアして、あたためて、ゆるして、無条件に愛していっていて、大丈夫というか、そうするしかない、という感じです。
クライアントさんでも、この数ヶ月間の中で(特に8月かな)「新しいステージに現実的に動いた」という方もいる一方で、
それに向かっていっているという場合は「焦る、急かされてる感じがする、そわそわする、イライラする、落ち着かない」ということも多いようです。この場合、不満があるなら、その自分の不満を、丁寧に、聞いていっていいというか、聞くべき、です。同時に、自分を褒めるというか、自分の素敵なところも、認めていっていい、というか、認めていくべき、です。
いずれにせよ、どちらも、ベースは、同じです。
根本はずっと変わりません。