手段として自分を愛していないかどうか

「”自分を愛する”ということが、手段になっていないかどうか?」

願いを叶えるために、自分を愛するとか。

外側の状況を変えるために、自分を愛するとか。

誰かから愛されたいがために、自分を愛するとか。

そういった場合は「自分を愛することが、手段になっている」ということと言えるかもしれない。

「自分を愛する」が手段になっていると、それこそ、蔑ろにされたり、無視されたり、裏切られたり、音信不通にされたり、都合よく扱われたり、どんなにがんばっても満たされなかったり・・・という延長線上に身をおくことになる。(客観的にみてそういう状況ということもあれば、自分がそう思い込んでいるだけということもある)

「自分のことを、ほんとうに、ほんとうに、ただ、大切にしたい、愛したい」

これを「心の真ん中」に置いておくことって、とてもとても、大事だなぁと思う。ここをまっすぐに、見ていく。これは、あるとき、自然なことになるのかもしれない。

これも、基本のきというか、そもそも論、みたいなところだけれども。

日々の生活に追われていたり、いろんな考えに覆い尽くされていたり、スピリチュアルや自己啓発や願望成就などについてたくさん情報を集めていたり、メソッドを試してきたり、しているなかで、

「自分のことを、ほんとうに、ほんとうに、ただ、大切にしたい、愛したい」

という、この、とても大事なところを、すっかり忘れてしまっている、ということは、もしかしたら、よくあることなのかもしれない。

でも、

「自分のことを、ほんとうに、ほんとうに、ただ、大切にしたい、愛したい」

と、心からそう思えることが、ほんとうに、ほんとうに、大事。

「自分を愛するために、外側の状況を変える」ということは、不可能です。一瞬よくなるかもしれないけれども、また、苦しくなる。

「自分を愛するために、自分を変える」という「自分」の部分も、「言動・行動・肉体」的なところばかりにフォーカスしていると、エゴが助長され、一番大事な「わたしの心、わたしの魂」を無視することになる。

「〇〇なわたしはOK、〇〇じゃないわたしはNG」「〇〇になったら幸せになるけど、〇〇にならないまで幸せはお預けです」というのは、条件付けの愛で自分をジャッジして支配するエゴの声。

「幸せ」というのは、心が先。

心が”先”、というか、心でしかない。内側でしかない。

そして、それは「今」そうなるしか、ない。

「自分を愛する」ということで、できそうなことは、いろいろあるかもしれないけれど。

心の奥に「ただ、わたしはわたしを愛する、愛したい、大切にしたい」という想いがあることを、確認してみる。

そもそも論的なお話でした。

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ちなみに。

奥の奥にある目的は・・・

「自分を愛する」のその先として・・・「愛」です。

頭では理解できない愛。定義などできない愛。理論で説明などできない愛。エゴの愛憎の愛などとは次元が違う愛。

誰か=自分、みんな一つでつながっている、愛。

みんなで受け取る愛。除外されるものがない愛。

できるできないとか、わかるわからないとかじゃなくて、ここを見ていたい。

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