大テーマでいうと「人がこわい」というお話もよく出てきます。
全体的にざっくり「とにかく人がこわい(外に出るのも本当はこわい)」ということもあれば、
「”特定のこの人”が、特定の”役割”の相手をこわく感じる(緊張する)」ということもあれば、
「本心で関わるのがこわい」ということもあります。
「本心で関わるのがこわい」というのは、たとえば「好きな人やパートナーなどに本当の気持ちを伝えたいけれどもでも・・・」という感じは、非常によくあるお悩みかもしれません。
わたしもそうでした。
それで、いずれにせよ「人と関わるのがこわい」というときは、
まず「どのようになるのがこわいのか?」「どのようなことを想定してこわいと感じているのか?緊張しているのか?」ということを、心に問いかけてみます。
答えを受け取れなかったら、そのままでもOK。このようなときも、時差で受け取れることは、よくあることです。
大事なのは、まずは、答えを受け取ることの前に、「問いかけること」です。
たくさん問いかけていくと、答えも受け取れるようになってくるものです。(練習です)
意外とよくあるのは、
(一言で言うと)裁かれるのがこわい、怒られるのがこわい、罰せられるのがこわい
などです。
見捨てられるのがこわい、拒絶されるのがこわい、
というのもあるかもしれません。
自分の気持ちを素直に正直に伝えることが、なんか相手に対して悪い気がする、とか、
素直な正直な自分のままでいて、相手から拒絶されたらどうしよう、とか。
このようなとき、
「自分がそういったことをされるに相応しい存在である」というセルフイメージを、自分で信じ込んでいる、ということに気づけるかもしれません。
※そういったこと、というのは「裁き、罰、拒絶、見捨てられること」です
例えば、「裁かれる、罰せられる、責められる、咎められる、怒られる」ような気がしてこわいとき、というのは、自分が罪な存在である(罪悪感)を信じている、ということです。(それゆえに、自責や他責の思考パターンを持っている)
「見捨てられる」「拒絶される」「嫌われる」というのも、「愛される価値がない存在だ」というセルフイメージを自分で信じ込んでいた、ということに気づけるかもしれません。
この場合も、自分が先に「拒絶している」「見捨てている」「嫌悪している」のですが、これに気づくことがまず大切です。これに気づいただけでも、結構、すごかったりします。
そして、自己否定のセルフイメージを自分が信じ込んでいる(持っている)ことに気づいたら、それを手放す、だけでいいんですね。
祈りによって、差し出すことで、それがほんとうに幻想だったということを受け入れる・・・つまり、そのあとは、それが取り消されていることを、思い出して(信じて)、例えば人に会ってみる、という感じです。
この「人がこわい」「自分の正直な気持ちを話すのがこわい」というのも、「誰か特定の人とのこと」と限定せずに、
いろんな人との間で「裁かれない、愛で受け止めてもらえる」という経験を重ねていくうちに、いつの間にか癒されていきます。
【クラスのお話】
現在募集中の4月の単発クラス、もうすぐ募集開始の実践クラスなど、複数人で学べる場も募集させていただいているのですが、
クラス(グループレッスン)は「裁かれない、愛で受け止めてもらえる」あるいは「ジャッジメントや価値判断、他人事などのエゴの思考が出てきたら、脇に置いて愛のまなざしで見る」という練習の場、という目的も、共通で持っていけたらいいな、と思っております。
自分が「エゴの価値観、判断、分析、評価などを脇に置いて、愛のまなざしで見る、相手の中にある愛を受け取る」という練習をすることは、相手への信頼にもつながります。なぜなら、わたしたちは無意識的に、自分がしていることを相手もきっとそうするだろう(されるだろう)と思うものだからです。これは鏡の法則でもあります。
皆さんで同じ目的を共有して認識することで、ヒーリング、気づき、シンクロ、解放などがどんどん起きます。
神経衰弱のトランプの絵柄合わせのように「言葉にできないモヤモヤを、〇〇さんが言葉にしてくれた」というだけでも一致となって解放がおきますし、そこからメッセージをみんなで受け取っていくことができます。
何か発言したときに「愛で受け止めてもらえた。裁かれなかった」と、一つひとつ受け取っていく、この経験を重ねていくことで、人がこわいとは思わなくなっていきますし、自然と信頼関係に心が開かれていきます。
例えば、自分が話を聞いていて、ジャッジメントや価値判断などのエゴの声が出てきたら「これはエゴの声だ」と思い出して脇に置く、という練習をしていくことで、相手のお話の奥にある本当のメッセージを受け取れるようになります。