あのときのあの声

あなた=わたし

神の愛=みんなの中の愛=わたしの中の愛

 

 

「鏡の法則」だったり「投影」だったりについて、「個人レベル、人間レベル」での解説がほとんどかもしれない。

もし「個人レベル、人間レベル」で鏡の法則を受け入れていこうとすると、苦しくなるのは避けられないと思うし、いとも簡単に「自分を責める方法」になってしまうし、「自分で自分を、そして誰かを、変えるための方法」という誤解を生み出してしまうものだと思い。

 

 

だから「個人レベル、人間レベルの話ではない、そうじゃないんだ、そうじゃないらしい(なんかよくわかんないけど)」という、この理解は、すごく大事。

 

 

ここでシェアしたい「鏡の法則」「投影」というのは、「個人レベル、人間レベル」ではない。

全体レベル、神の子レベルの話。

 

 

だから「今、わたしの中に浮かんでいるこの痛み、苦しみ、悩み、問題、執着にしてしまった願いを、光に捧げ、奇跡に変えてもらうことは、同じ痛み、苦しみを持つすべての人々と、その人々の関わるすべての人々、もっというとすべての人々と共に、神の癒しを受け取ることになる」ということ。

 

 

だから、痛み、苦しみ、悩み、問題、執着にしてしまった願い、神聖な存在に捧げて委ねるということは、みんなで奇跡、癒しを分かち合う、ということ。

 

 

ここに「時間がかかる」とか「これは難しい」という信念を差し込んでいるのは自分であって、神ではないということ。ついでに言うと、魔とか、悪魔とかでもない。魔の夢、悪魔の夢を見ているのは神の子であって、それは実在していない。従ってそれは無であると言うこと。

呪いというのは、神の子が、神に追いかけてほしくて走った、砂浜の足跡。

 

 

「時間がかかる」「これは難しい」「なんで何も変わらないの」「どうせわたしなんか」というこの考え、今まで正しいと主張しつづけてきたこの考えが、全面的に間違っていたい。

自分の不幸や苦痛が全面的に間違っているということについて、つまりそれ(不幸や苦痛等)を支えている様々な「正しい価値判断」が全面的に無効であるということについて、

驚きな喜びの体験(=奇跡)として受け取ることで、自分は真に判断などできないし、間違っているということが、どんなに幸せなことかを学びたい。

「時間がかかる」「これは難しい」「これは無理に決まっている」「だってみんなそうだし、普通に考えてこうだし、常識的に考えてこう」というすべてが、間違っているという喜び。

自分の中に生じた幸せの感覚の手本が、世界のどこを見てもない、科学的証拠もない、きっと受け入れてもらえない、というなら、それは「無理だ」ということではなく、あなたは神聖性によって手本を示すという機会。

 

 

ここで、あまりにも重要なことは「自分でしない」ということ。

自分でしない、自分でなんとかしようとしない、自分では何もしない。

これは別に「ずっと引きこもり、ベッドの上でじっとしているように」というようなことではない。

「わたしがする(行為者)」という思考パターンはエゴである。エゴである、というのは、「エゴだから悪い、見下されるに値する」とかじゃなくて、

ここでいうエゴというのは、恐れを土台とした思考体系であり、制限や限界を信じている自分で築き上げた牢獄、ということでもある。

 

 

自分ではなにもしない。自分はなにもわからない。

だから、唯一の絶対的な存在にゆだねたい。

その完璧な存在にすべてを導いてもらうことにします。

 

 

唯一の絶対的な存在、その完璧な存在というのは、一人ひとりの中にあって、その存在は、失敗を知らない。

その存在は確かに、この世界のものではないんだけれど、この世界ではないからこそ、この世界のすべてを奇跡に戻すことができる。

だから「奇跡が受け取れない」みたいなときは、自分が間違っているだけ。

自分が間違っている、この不幸や苦痛や空虚さは、ただ自分が間違っていただけで、間違いは完璧な存在によって瞬時に訂正可能である、というのは、なんて、喜ばしい知らせなんだろう。

 

 

完全無欠な存在にゆだねるというのは、エゴにゆだねるのをやめるということ。

エゴにゆだねるのをやめるということは、エゴにゆだねていることに気づけるようになる、自覚できるようになる、意識できるようになる、ということ。

エゴにゆだねることに、なんのメリットもないということを、たくさんの奇跡を受け取りながら、すこーしずつ、学んでいく、ということ。あるときからは、聖なる存在と共にカンニングペーパーを見ながら、幸せという”正解”を選んでいくということ。

 

 

神様の完璧な采配を信じる、ということは、エゴを疑う、ということ。

エゴを疑う、ということは、「エゴを盲信しているということ」「エゴが采配をふるってきたということ」を自覚していくということ。

 

 

自分の中の神を疑うということは、自分の中のエゴを信じる、ということ。

自分の中の愛を疑うということは、自分の中の恐れを信じる、ということ。

 

 

もう、恐れの正当化、恐れの証明には、十分に時間を費やしてきた。

すでに光は訪れていた。

 

 

ここで、10代の頃、わたしが聞いた「声」。

声というか「USBみたいな感じ」と言ったほうがしっくりくるんだけど(でも、実は、USBがよくわかっていない・・笑)

とりあえず「声」にしておこうと思います(USBがよくわかっていないので・・笑)

この声というのは、明らかにこの世界を超越しているので、どのようにも翻訳できるのですが、それを今、翻訳すると、

「”それ”をする必要はない。そのときは必ずやってくるが、今ではない。それまで幸せな夢だけを見なさい」

です。(そして、この”それ”というのは、”肉体の死”なのですが。肉体の死とこの世界の終わりをこの頃はまだ混同していることにも気づいてなかった)

 

 

今日、わたしの中で明確になったことは、この

「”それ”をする必要はない。そのときはこれ以上ないほどの幸福と共にやってくる。それまで幸せな夢を見なさい」

言い換えると、

「この世界をあとにするまで、この世界で幸せな夢だけを見なさい(悪夢ではなく、幸せな夢を見ると決めなさい)」

というこのことは、「個人宛のメッセージ」などでは全くなかった、のだということ。

だから、これは、みんなと共有する、するというかされている、共有するということがすでに決められているということだったんだー!!!!

ということ、これが、わたしの中で、明確になりました。

 

 

例えば「結婚したい」とか「お金がたくさんほしい」とか「転職したい」とか「大きなお家に引っ越したい」とか「美味しいものをたくさん食べたい」とか、そういったすべての願い。

そして、迷い、問題、悩み。

そういったすべてに神聖な光に流れていただく。

それはつまり、完璧な愛そのものとしての本当の自分自身を受け入れ、思い出していく、ということ。

大いなる存在から、こんなにも愛されていて、喜ばれていて、感謝されていることに、気がつく、

そして、自分も、これ以上ないほどに、愛していたということに、気がつく、

このことに、気づき続ける、ということが、目を覚ましていくということ、

自分(心)が本当の自分自身(内なる神性)と出会う、両思いになる、対話する、ということ。

 

 

なにをそんなに恐れていたかというと、この、「完全無欠の完璧な神聖な大いなる存在に、これ以上ないほどに愛されていて、愛していた」ということを、受け入れることだけだったんだ。

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