「愛」といっても、”この世”では、いろいろな「愛」がある、といえます。
なので、今回の「愛」のお話は、ブログでよく書いている「愛(わからないもの)」のお話ではなくて、
”この世”の「愛」のお話です。
まず、古代ギリシャでは、
恋愛感情(エロス)
友愛(フィリア)
家族愛、我が子への愛、兄弟愛(ストルゲー)
無償の愛、無条件の愛、神の愛(アガペー)
・・・などは、古代ギリシャにおける4つの愛、ですね。
アガペーは、調べてみると「キリスト教的な自己犠牲をいとわない愛。博愛主義」というようなことが伝えられているようです(※)
(※)ちなみに。アガペーはインターネット、および、手元にあった書籍(心理学系)にもそう書いてあったのですが、「キリスト教的な自己犠牲をいとわない」というのは、わたしの認識・感覚とは異なりました。
人類愛
隣人愛
郷土愛
師弟愛
好意(愛)
恋愛(愛)
愛着(慣れ親しんだ物事に深く心を引かれ、離れがたく感じる)
与える愛
見返りを求める愛(取引)
求める愛(欲求、要求、期待)
愛憎(愛と憎の表裏一体)、執着
条件付きの愛
などなど・・・
いろいろ、あります。
仏教での「愛」は欲望、執着、という「離れるべきもの」で(マーラみたいな?笑)、仏心は慈悲の心と言われているそうです。
心理学や日本での「愛」は、西洋・キリスト教からの流れが大きい感じですね。
昔、キリシタンが日本にきたとき、キリスト教では最重要な「愛」を「御大切」という言葉で表現したんだとか。(御大切=大切に思う)
この世の愛だけでも、奥が深いです。わたしとしては、この世の愛として「御大切」がしっくりきました。
だから、たとえば、自分はひとりぼっちで誰からも愛されてないように思えたとしても、
友達や知り合いはたくさんいても、なんだか心が寂しいような、空っぽなような気がしても、
誰か一人でも、それが人ではなくても、生き物ではなくても、
なにかを大切に思う気持ちがあるときというときは、きっとあって、
それだけで十分なのではないか、なぜならば、内側にそれがあるのであれば、外側に反映されるものだから、
それが受け取ると与えるが同時に存在している、ということです。
だからその、意図的、意識的、「頑張って努力してそうなった」とか「計算計画」とか「コミュニケーション術的」でなかったとしても(そうであったとしても)
本人が自覚のないところで、それは、滲み出ているもので、それを認める、というのも「認める」です。
(ここで「いや、わたしなんかが」というのを、「エゴによる傲慢、偽の謙虚さ」と言います。わたしたちが自分を見下すとき、必ず、誰かを見下します)
なので、どちらかというと、「愛」というのは、ある前提というか、もともと「愛の存在である」前提、な感じなイメージなのですが。
ここで、よく心に耳を澄ませたいのが、
親密な人との関係だったり、片思いしている人との関係だったり、ということはよくあります。
たとえば、母と子。
たとえば、パートナー(恋人や配偶者)。
たとえば、憧れのあの人のことを一日中考えてしまう。
たとえば、曖昧な関係の彼との関係。
などなど。
求める愛(欲求、要求、期待)。
愛憎(愛と憎の表裏一体)、執着。
条件付きの愛。
与える愛も、苦痛や問題などが伴う場合は、自己犠牲的になっていないかどうか、排他的になっていないかどうか、被害者加害者となっていないかどうか、などを、見つめていくことができます。
わたしは、長い長い間、この「愛」というか、人間関係に苦悩してきました。
わたしの場合は「母との関係」がとても根深いもので、それ以外にも人間関係に違和感だったり、苦手のようなものだったりを感じる原因というのはありました。
その一方で、自分のことを、ずっと問題視して、いつも否定的な見方をしてきました。
当時から(この仕事をはじめるずっと前から)、自分ががっつり、関係依存・共依存、愛憎関係、執着、の問題で苦しんでいる自覚がありました。
でも、そのおかげなのか、「自分の(正確には自分のものだと思っている)考え、価値観、感じ方、感覚」を、片っ端から疑う、という習慣がありました。
これは、心の勉強をしはじめてから知ったことですが、浄化(不要な思い込みを手放す)において、「自分の(正確には自分のものだと思っている)考え、価値観、感じ方、感覚を、片っ端から疑う」ということは、とても重要です。
「自分の(正確には自分のものだと思っている)考え、価値観、感じ方、感覚」を疑う。「ほんとうに?」と疑う。
偽の自分に気づく、思い込みを思い込みだと気づく、とても簡単でシンプルな方法です。
そうだそうだ。
愛憎というのは両面感情です。
大好きと大嫌いというのもコインの表裏です。
理想化とこき下ろしもそう。
期待と裏切りもそう。
コインの裏と表は、セットです。
これを、受け入れることで、エゴをエゴだと、暴けます。
これは、すべて「エゴによるもの」であって、ピュアな自分の感覚ではありません。
エゴを「わたしの思考・感情」と思う必要はありません。
誰かとの関係(パートナー、親子など)も、こういうこと(心やスピリチュアルなど)を、知っている側が、
心の奥にある、奇跡の扉の前にある、トゲトゲや、重たい石や、不吉な予感のする雲などを、退けておく。
意外と、「最終段階」で出てくる(盲点になる、同一化したままになる)のが、自己犠牲・正義、というのは、傾向として多いようです。
最終段階というのは、目覚めの最終段階です。
ご自分が「コントロールしてる側」の場合、ということもあるかもしれまん。
支配されてきたので、支配してしまう、みたいな。
いずれにせよ、すべて、まるごと、そのままを、そのままでOK、とみていくのが、基本の木です。