【内側に原因】原因と結果の法則のほんとうの意味

内側に原因。

内側が先、外側はあと。

「原因と結果の法則」というのも、内側に原因です。

「あのときのあの行動が原因」とか「家系が原因」ということ止まりでは、まだ浅い、まだ外側に原因になってる場合があります。

ここから、霊的な話、となってくるのかもしれませんが・・・。

 

 

たとえば「あのときのあの言動が」というよりも、それをした心の奥の選択をみる、

というのが、内側に原因です。

そして、この内側に原因というのは、すごくシンプルにいうと、

「おそれ」か「愛か」

「分離(自我)」か「完全なる一体性(本来の自分自身)」か

ということになります。

 

 

そして、わたしたちは「自分がおそれを感じている」ということが理解できていなかったり、

依存なのに「愛」だと勘違いしていたり、攻撃・奪う・押し付けるということを「ふつう」と思っていたり、するのです(自我によって)

 

 

いくつか例を書いてみると、

・「それをおそれと呼びます」ということを知らなかったり、あるいは、そう言われても受け入れがたかったりすることは、よくあります。

・さみしさからアクションすることは、「わたしには愛がないので愛をちょうだい」という不足の思いからの行動で、これは「奪う(攻撃)」と同じことです。

・人を見て「この人は完璧な人間だ」とみることは、相手をありのままに見ようとしていない、自分が隠している不足の思い込みの投影なので、「攻撃」と同じことです。なので、相手に完璧性を見ていく、というのは、人間という肉体を見ていくのではなくて、スピリットを見ていく、ということです。

これがいいとか悪いとかじゃなくて、わたしたちは自我(おそれ、分離)を選択しているとき、このように見ます。

 

 

この内側で選択した原因を、愛にする、愛にしつづける(つまり、外側のなにもかもが愛、奇跡の体験として受け取る)という感じです。

愛、神、を、選択するので、時空(時間、距離)は超えます。だから不思議現象、奇跡、なのです。

 

 

神聖さというのは、等しさでもあります。罪とは無縁で、無条件に愛されているということを受け入れるということです。

だから、自由に、選べます。

あの人は嫌い、これは悪い、こっちの方が正しい、というジャッジではなく、等しさなので、すっと、選べます。

「これは欲なんじゃないか、執着なんじゃないか、こんなこと望んではいけないんじゃないか、自分には問題がある」など、すべてが愛に包まれているので、自由に選べます。

その中で、安心していられます(これが現実創造の視覚化、引き寄せの法則の土台みたいなところです)

 

 

内側に原因、原因と結果の法則、というと、

「こんなことになったのは、わたしが悪い思考を持ったせいだわ(自責、罪悪、自己否定)」とかじゃないんです。

自分を「罪深き悪者設定」した自分をゆるして、愛します。ただ、愛で包みます。

 

 

「確かにこの考えを持ったのは悪かった、今度から気をつけよう」というのとも、ちょっと異なります。

その自分の素っ頓狂さに爆笑して、愛を選ぼう♪みたいな感じならいいのですが、

ここに「自分のお尻叩くような感じ」が少しでもあるなら、二重の自責になってないか、立ち止まりたいところです。

とことん、愛です。

 

 

あまりにも、厳しさを信じ込んできた場合は、「愛の声」は、こわく感じることがあります。

なぜか「そんなもの信じたら、自分は、大変なことになる」ような気がしてくる場合があるのです。

けれども、愛なのです。無条件にすべて愛なのです。どこを切り取っても愛。

 

 

とことん、愛に戻り続ける、愛を感じる中で、一番ほしいものが、現れます。

あまりにも愛を受け取り続けるので、最初「自分は何も差し出せていないのに」とまた、揺さぶられる場合もありますが、

それは、差し出しているから受け取れるのです、受け取る通りに差し出すからです。

 

 

目に見えない、自分の中にいるけど自分ではない存在に、差し出す。必ず受け取るので感謝する。

そして、この世界で、体験する(受け取る、みる)、これを積み重ねていくのが、祈りで、これは「ほんとうの自信」につながります。

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