セッションをはじめたばかりのころ、驚いたことがあります。
なんというか・・
自分が、過去に悩んでいたこと、問題だったこと、繰り返していたパターンがあって(願望や執着もここに含めます)
自分の中で過ぎ去ったもの
↑すべてがこれに見えたことがあったのです。
この数年間、クライアントさんからも、同じような話を聞きます。
例えば「家族だったり、大事な人だったりが過去の自分に見える」というものです。
私は「過去の自分に見える」というものについて「もしかしたら、どうやら、これはこういうものらしい」ということを、知ることになります。
自覚があっても、自覚がなくても、私たちは過去だけを見ている。
意識が深く、クリアになってくると「私は過去だけを見ている」ということが、はっきりしてくる、ということなのかもしれない。
もちろん「常にそうだ」というわけじゃなくても、そういうときが増えてくるかもしれない。
私の場合、最初は「自分が経験したことある過去しかない」ということに驚いていたのだけれど、
あるときから、その過去を心の目で見ることによって、過去が愛に戻され、
不可能にしか思えないところに聖性による可能性が見えたり、
「分離があるところに一致を(聖フランシスコの平和の祈り)」見せていただいたり・・
「憎しみがあるところに愛の意味」を見せていただいたり・・
書きながら、今、ハッとしたのだけれど、あの聖フランシスコの平和の祈りというのは、このことなのか・・!?
だから、セッションもクラスも、それ以外のいろんなことも、気づきや学びで溢れかえっています。
これは、本当にありがたいことで、「自分の力」じゃ、絶対にできないことだと思ってます。
そして、じゃあ、過去「だけ」を見るのか?というと、私は、そうは望まない。
私は、過去を見た上で、それを超えたところを心の目で見たい。
過去を見ていることを自覚した上で、インスピレーションが現れるところを、心の目で見たい。
そして、神からの癒しを共に受け取りたい。
「その過去(痛み、苦しみ、葛藤、問題、悩み、執着の苦しみ)」は、必ず、過ぎ去るもので、その結果どうなるか?は、神のみぞ知る。なぜなら、癒すのは神だから。
「神とあなたのコラボレーション」「神とわたしのコラボレーション」・・これは、この世界において、「真の個性」と映る類のものなんじゃないかと、私は思ってます。
「真の個性」というのは、決して誰かのコピーや、真似っこではなくて、「その人にしか出せない味」みたいなもの。
でも「(孤立・孤独という意味の)特別」ってわけでもなく、その喜びを、みんなと分かち合える感じのもの。
なぜか、たくさんの人々の心にシンクロしていくもの。
神は「ひとつの神の子(一人じゃなくて、ひとつ、です)」に与えてくださっているから、みんなが受け取る。
みんなの心で思い出される。
とってもすてき・・。
私が祈りなどの土台にしている奇跡講座のワークブックレッスンに「レッスン7 私は過去だけを見ている」「レッスン8私の心は過去の考えにとらわれている」というのが出てくるんだけど、私にとっては、なんの引っかかりもなく受け入れられるものでした。
こんなふうに、すぅっと心に受け入れることができたのは、長年、心や精神世界や法則性について学び続け、内観し続け、10年以上ホオポノポノをしていたおかげもあったと思います。
やはり「登山ルートはたくさんあっても、目指す山頂はひとつ」なのだと思います。
目指す山頂はひとつだからこそ、この世界において「私はこの道」というのが、しっくり、ピッタリきているのは、すごく、すごく、ありがたいこと。
ありとあらゆる学び、癒し、師、経験などに恵まれて、準備が整った上で、祈りの土台(奇跡講座)に出会えたことは、私にとってソウルメイトに出会ったような感覚、運命の相手に出会ったような感覚でした。