主よ、わたしを平和の器とならせてください
憎しみがあるところに愛を
争いがあるところに赦しを
分裂があるところに一致を
疑いのあるところに信仰を
絶望があるところに希望を
闇あるところに光を
悲しみあるところに喜びを
ああ、主よ、慰められるよりも慰めるものとしてください
理解されるよりも理解する者に
愛されるよりも愛する者に
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け
許すことによって赦され
自分のからだを捧げて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです
ある方が、好きなお祈りがあって、と教えてくださった、聖フランシスコの平和の祈り。
あたたかいなにかが広がっていって、ホッとしたとき、体に力が入っていたことに、気づきます。
最近、「献身」ということについて、よく考えていました。
今、ふと思い立って、インターネットで辞書を引いてみると「一身をささげること。自分の利益をかえりみずつくすこと。自己犠牲」と出てきました。
けれども、わたしは、「献身」というのは、ほんとうは、「自分が犠牲になってます感、わたしばっかり大変です感」というのが、ないのではないかと、思うのです。
たしかに、献身的な方というのは、「損得勘定の算盤を弾くこと」は、とてもとても苦手であることは、多いようで、けれども、その豊かさというのは、無限に神から与えられ続けているとも、感じます。
してあげるというのは苦しみにつながることがありますが、させていただくって喜び、ただただ喜びが広がります。
からだを捧げることができるのは、自分は身体ではないということでもあるのかもしれない。
身体ではない本来の自分というのは、神から離れたことがなく、それは、ただただ、喜びや平和が広がっていくものなのかもしれない。
「自分が感」や「自己否定」などで、その光を遮らずに、その光をただただ認めていくことが、自分を愛すること、また別の角度からいうと自分が自分を裏切らないこと、なのかも、しれない。