内観

内観。

最初のうちだったり、久しぶりだったり、「自分にとって大きな動揺となること」「とても重要なテーマ」「大きな一歩となること」だったりすると、うまくみれない・・・、ということもよくあるようです。

だからこそ「紙に書き出す」のがおすすめです。

ただ、自分の内側を見るだけなので、「手順」などはないのですが、内観のイメージが全くわからない場合などは、「ジャーナリング」を調べてみて、やってみるのも、いいかも、しれません。

 

 

内観の全体像、みたいなものを、今日は書いてみたいと思います。

まず、大前提として、自我は、内観が大嫌いです。

たとえばですが「押入れの中にゴミを隠して、そのゴミを脅威だと思い込み、絶対に見ないようにしている」みたいなイメージです。(本当は、押入れの一番奥に、愛があるので、自我はその愛に気づかれては困る、という感じなのです)

けれども、ゴミを押し入れに隠して、それをなかったことにしていたとしても、薄々「あの押し入れになんかある」ことはわかってるのです。

それで、一人で、モヤモヤしたり、そわそわしたり、トゲトゲしたり、している感じです。

 

 

内観というのは、その押入れの中を「そんなことをした自分を裁きながら、ゴミにケチをつけながら、お小言を言いながら見ていく」などではないです(笑)

ここで、出てきたゴミの一つを問題視・深刻視すると、かなりきついはずです。そのようなことをする必要はないのです。

「無条件の愛とともに見ていく」という感じです。

そして、その押入れの中に詰め込んだものを、一つひとつ「これは、なんでもなかったね」と優しく、安心しながら、解放していく・・・みたいな感じです。

 

 

そんなふうにして、自分の内側を見るなんてことはせずに、外側のせいにしたり、外側の誰かや何かについて考えている方が、自我にとってはよほど「心地よい」のです。

自分の思考や感情に蓋をして(=抑圧、否認)、その蓋の上をキラキラに飾り立てて、澄まし顔をしている方ことを、自我は好みます。

これは、もう、わたしたちは、そういうものだ、という感じです。

内観だけでも、解放、深い安心を受け取れたり、内的なものだけでなく、外側でも「嬉しいこと」がたくさん起きるものなので、そのような経験、奇跡の体験を積み重ねていくうちに、自然と内観したくなります。

 

 

このときに「自分を裁きながら、内側を見る(自分責めの会)」や「自己憐憫に暮れる会」みたいなことになりがちな場合は、

神聖な存在とともに見る、ということを決めてから(=祈ってから)、内観するようにしてみてください。

というか、そうじゃない場合も、無条件の愛とともに見ることは、大切かもしれません。

神聖な存在、無条件の愛、大いなる存在の象徴としての存在、です。

「神様」でもいいし、「ハイヤーセルフ」でもいいし、「天使」でもいいし、「ご先祖様」「スピリットガイド」でもいいです。

その無条件の愛の存在に対して自己開示する、自分が自分に正直になる、心を開く、ということが重要です。

自分ががっつり自我の中に沼りこんでしまっているときは、どこをみてもなにをみても、当然、自分の心の中をみても「裁き・罰の道具」のようになってしまうので、

「完全ノージャッジメント、絶対に裁かない・罰しない存在、無条件の愛の存在」が必要、という感じです。

この「神聖性、無条件の愛」というのも、わたしたちの心の奥の奥の奥にあるので、一回一回意識していくことで、内側にある愛を認めていくことにもなります。

 

 

それで、内観をしてみよう、内側を見てみようとして、最初に出てくるのは、闇、影、ドロドロ、トゲトゲです。

自分の思考や感情に蓋をして(=抑圧、否認)、その蓋の上をキラキラに飾り立てている場合、キラキラが出てきたように思うということもあるかもしれませんが、蓋を開けて出てくるのは、闇、影です。

自分や誰かを責める思い、攻撃的な思い、自分は傷つけられた・自分の方が正しい・絶対にこうに決まってるという判断・価値観、怒り、おそれ、罪悪感、復讐心・・・

過去の回想や、たらればが止まらなくなるとき、相手の気持ちが気になってしょうがなくなるようなとき等は、逃避・妄想に走ろうとしている可能性があります。

ここで、「こんなこと思ってちゃダメだ」とか「なんてひどいことを思ってるんだ」とか「この思考・感情を早く手放さなければならない!!」などと、内観ではなく取調室みたいになろうとしてる場合は、もう一度、「神様 お願いします」と祈ります。

 

 

そうやって、内側にあるものを、見つめながら、書き出しながら、

自我(考え、価値観、信念)を疑問視してみたり、

必要な場合は、どうしてそのように思うのだろう?と問いかけてみたり、

自分は何を投影しようとしているのだろう?と問いかけてみたり、

自分が気づいていないもの、見えていないものはなんだろう?と問いかけてみたり、

ここから受け取れるメッセージ、気づきはなんだろう?と問いかけてみたり、していきます。

このあたりは、あなたの心が自然と導いてくれる、スピリットガイドが導いてくれます。難しく考えなくて大丈夫、内なる存在に祈ることによって、必ず、導いてくれています。

 

 

投影というのは、究極、自分の中の完璧な愛を否定した・分離したと信じ込んだことによる罪悪感の投影です。

信じ込んでいるだけであって、実際にはそうではない、ということが、内観によって、受け取れていくと思います。

心の奥の奥には、愛、光、と呼べる思いが確かにある、というところまで、降りていくのが、内観です。

なので、内観を深めていくことによって、深く深く深く、潜っていくことによって、内側には愛がある、ということも感じられるのですが、

この「内側を見る、深くみる」というところに、あるいはそれまでに、わたしたちは時間がかかってた、みたいなところがあります。

 

 

全体像、というところで書くと、こんな感じです。

 

 

特に「第一層目」などは、正当化してることがほとんど、もっというと「正当化してることにも気づいてない、気づかないふりをしている」ことがほとんどです。

これは、いい悪いとかじゃなくて、そういうもの、という感じです。

もう一度書きますが、自分の思考や感情に蓋をして(=抑圧、否認)、その蓋の上をキラキラに飾り立てて、澄まし顔をしている方ことを、自我は好みます。初期の頃は、このような場合がほとんどです。

「いい子」「わかってる」「平気なふり」を、している場合は、まず、その殻の奥をゆるせるまでに、数年かかる、ということはめずらしくない、というほどです。

 

 

大抵は「自分の中には悍ましいものがある」とどこかで思っていて、隠しています。あるいは、開き直っている、ということもあります。

どちらも、自分のことを悍ましい存在だと思い込んでいることには変わりありませんし、自分を本当は悍ましい存在であると自分で設定した上で、その悍ましい自分でも愛してほしい、というのは、なんというか、

「お餅なのに消しゴムだと主張し、だからスーパーではなく文房具店に並びたい」と言い張ってるような(ちょっと違うかな笑)、とにかく、的外れなことなのです。

 

 

「自分は悪くないと言いたい(つまり自分が悪いと思い込んでいる)」

「自分が信じている価値観を、それが例え自分を苦しめていようが手放す気がない、疑う気がない」

「相手のせいにしていることに気づけない」

などなどに、ハマり込んで、「なぜだろう???」となることもあると思うので、

「自分はなにに気づいていないのだろう?」とか、

「相手のせい、外側のせいにしているのであれば、それに気づきたい」みたいな感じで、みていきます。

これを繰り返していくうちに、間違ってましたと認める喜び、全くわかってませんでしたと認める喜び、そして、それを、神に委ね、捧げ、まかせて、受け取ることを、今感謝する。

少しでも心が揺らいだらそれを奇跡の扉として受け取れる・・・となっていきます。

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