奇跡の前には、まず浄化があります(1)

浄化のとき。内観して手放していくときって、

「これはいつまで続くんだろう」とか「苦しい」という時期を通過することは、めずらしくありません。

継続コースなどで、この時期をご一緒させていただくことも、よくあることです。

※奇跡の前には、浄化がまずあります。浄化とは、内観して手放すことです。

 

 

 

でも、必ず、その「困難に感じる時期」を超えるときはきます。

できれば、その「困難に感じる時期」はできるだけ短い方がいいですし、

そのあとで、また何か問題・心配に見えることやモヤモヤすること(不要な思い込みや価値判断)が出てきたとしても、

さらっと手放して奇跡を受け取る、となりたいものです。

 

 

ということで、今回は、この「困難な感じ」を通過する上でのポイントをいくつか書いてみたいと思います。

 

 

(1)「これはエゴの働きである」

さまざまな形の不快感(怒り、自責、悲しみ、落ち込み、焦り、不安、おそれ、罪悪感)があるとき、

「これはエゴの働きである」「この感じは、自分はエゴと同一化しているということ(らしい)」

「エゴとは人類集団の機能不全(らしい)」※参考書籍「エックハルトトール/ニューアース」

これを何度も思い出すことです。

「飲み込まれそうな感じ」「ネガティブで苦しくなる感じ」「先のことまで考えてしまってお先真っ暗のような感じ」

「どうしてもこの人のことゆるせないと何度も思い出してしまうとき」「執着で苦しいとき」

・・・こういうときに、何度も、思い出します。

奇跡の体験を受け取るにあたって必要なことは、思い出したいという意欲、受け入れたいという意欲、学びたいという意欲だけです。

 

 

(2)内観も、手放すことも、自分でしないこと

「自分でやろう」としていると、難しい感じ、苦しい感じ、できない感じがしてきます。

エゴと同一化したまま(エゴの眼鏡をかけたまま)、どこをみても、誰をみても、自分の心をみても、エゴに見えます。

内観のときは、大いなる存在・無条件の愛の存在(例:神様)と共にみる、神様に一緒に自分の心を見てもらう、

と、毎回きちっと意図していくことは、意外とすごく大事です。

自分がすることは、例えるなら「お部屋の中に神様を招くこと、ゴミを見つけること、ゴミは要らないですと神様にいうこと」だけです。

あとは全部、神様(内なる神、自分の心の中の神聖性)がします。

なので「自分(人間)でやろうとしない」というのは「誰か(人間)にしてもらうわけでもない」ということでもあります。誰の心の中にもある「内なる神・神聖性」のお仕事です。

たったこれだけで、奇跡の体験、深い解放、真の癒しを受け取れます。

 

 

自分でやろうとするとき、修行、苦行、ほふく前進、みたいな感じになる、ということは多いようです。

自覚がない場合は「自分でやろうとしてた!」と気づくことも大事で、気づいたとき、ふわっと軽くなります。

 

 

これは、個人的には「慣れ」「練習していればこの感覚を掴めるようになる」という感じがしています。

「自分でやろうとしない」からこそ、簡単なのです。

 

 

内観に慣れてくるというのは「心」「自分自身の感じる力」が磨かれていく、ということでもあります。

ここでの「感じる力」というのは、もちろん五感の話じゃありません。

なので、直感・感覚なども鋭くなってくる方、シンクロ、サインを感じ取るようになる方、タイミングが良くなる方も多いです。

同時に、内観しているときに、自然と「自分への問いかけ」が浮かんだり、イメージが浮かんだり、

という、心の自然な働きが、どんどんピュアに感じられるようになってきます。相手への愛や、愛を求める気持ちを感じて、優しい気持ちに包まれるかもしれません。

なんかよくわからないけど、涙がたくさん出てきて、よくわからないままにスッキリする、ということもあるかもしれません。

そうじゃなくても、このように「どのような自分も見る、認める」とした方が、返って、

「相手への純粋な感謝」が心から感じられるようになるものなのです。

 

 

続く。。。

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