一瞬だけあげる

ベッドの上で。

毛布をぐるんとかぶって、縮こまってる感じ。

その中で。

懐中電灯を見て「これが光だ」「これが私の価値を証明してくれる。もっと欲しい」と言ってみたり。

ホッカイロを見て「これが愛だ」「冷たくなったらどうしよう」と言ってみたり。

そうこうしていたら「得たような気持ち」になることもあれば「失う恐怖、不足感、欠乏感、足りなさ」を感じることは、どうしてもあるもの。

 

 

祈りって。

段階は色々あると思いますが。

あるときは、そのかたく、握りしめていた毛布を、一瞬だけ、上げるような感じ。

一瞬上げただけで、「毛布の外」から”光”が差し込む。これが奇跡。

そのあと、また、かたく閉じる。

 

 

あるときは「どうやら、今までの自分のやり方、価値判断、ではいまくいかないらしい」ということに気づき、

あるときは「この懐中電灯に価値を置くことが、自分のこの苦しみに繋がってるらしい。もうこのような苦しみは嫌だ。手放したい」と思い、

そのときは、そのかたく、握りしめていた毛布を、一瞬だけ、上げて、懐中電灯を差し出す。

すると、「毛布の外」から”光”が差し込む。

それは「懐中電灯を超えた、最高に完璧な体験、自分の心の奥から満たされる喜びの体験」で、奇跡としかいいようがなく、それによって、芯から癒されます。これはもう、そういうものだ、という感じで、必ずそうなります。

懐中電灯が取り上げられる話では、まったくないです。

 

 

そして、そのあと、また、なぜか、かたく閉じます。

受け取りたい、と言いながら、かたく、閉じる。

奇跡は、ただ、待ってくれています。

 

 

「どう考えても、あの人のせい、あの人は毛布の中に閉じこもっている」と言いたいときは、

自分が、毛布の中で、ぎゅっと縮こまっているとき。

毛布の外側は、これ以上ないほどの、あたたかな光で満ち溢れている。

無条件の愛は、無理やり、毛布を剥ぎ取ることなんて、しません。フットインザドア、みたいなことも、しません。

ただただ、あたたかく、そのままを、愛して、認めて、尊重してくれています。

 

 

そして、一瞬だけ、また、毛布をチラッとあげてみる。

すると、必ず、光が差し込む(奇跡を体験します)。

 

 

苦しい感情・思考・考えがわぁ〜っと出てくるときは、

この、毛布の外に差し出すものがたくさんある、

今までもずっとあったんだけど、それで自分を誤魔化せないほどになってきた、

という感じでもあります。

なので、どんどん、「ないフリ」などせずに、差し出せば差し出すほど・・・素晴らしい体験があるのです。

 

 

この体験を重ねていくと、毛布全開で過ごすことのほうが多くなって、

だんだんと、毛布を被りたくなったとき、被ったときは、すぐに、それを自覚できるようになります。

そんなふうに、経験によって、比較やジャッジやコントロールは自然としなくなって、

自分はダメだ、価値がない、わたしなんてこの程度だ、などとは、思わなくなります。

 

 

だから、体験がとっても大事。

経験あるのみ。できるできないとかじゃなくて、ただ、経験あるのみ、です。

体験がとっても大事なのは、内側の原因が、偽の原因から本当の原因に入れ替えられました、ということの結果でもあるからです。

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