以前「支配者」という人がいるということを前提とした理論、心理療法を学んでいた・用いていたことが、ありました。
とても素晴らしい治療法で、発見者の先生は天才。
わたし自身も受けたのですが、あるとき、それが、使えなくなったというか、そういう瞬間が、訪れました。
このことについて、なかなか、うまく、言葉にできるようなできないような感覚があって、どうしてもこんな言い回しになってしまうのですが「ガイダンスに従った」という感覚です。
そして、その少しあとで気づいたのは、その先生のもとで習った治療法のひとつが、わたしにとって「祈り」だったということです。
その少しあと、というのは、「神」や「愛」という表現を使用することを、深く深く、ゆるした、あと、です。
たとえば「土の時代〜風の時代理論」という中でも、なんというか「目に見えるものだけを重要視して獲得して…」というのか、そういう層があるとします。(A層)
そして、中間層(B層)。Aに警戒したり反応したり、AとCの間を揺れ動いたり、するかもしれない。
そして、自由になった層・光だけに従うようになった層、というのがあるとします。(C層)
「自由になった層」「光だけに従うようになった層」というのは、わたしの感覚の言葉で書くと「ライトワーカー」です。
どんな職業でも、なにをしている人でも、ただそこにありのままで存在して光を放つ人=ライトワーカー、だと思っています。
光を放つ、輝きは自然と伸びていく。そして、その光や輝き、というのは言い方を変えると、愛となるのかもしれないし、創造性ということになるのかもしれない。
わたしがブログで、「本来の自分」と書いていたのは、この「ただそこにありのままで存在することで光を放つ(ただそこにありのままで存在するからこそ、かな)」このことでもあります。
それには、”「自分じゃないもの」を削る”ような、そういうことも、大いにあるでしょう。これは、場合によっては、非常に痛みを伴います。
削るというのか、磨くというのか。なので「自分磨き」とか「御魂磨き」という言葉を思い出しますが、もしかしたら、一般的に認知されているそれとは違うかもしれない、同じかもしれない。
「〇〇だから、難しい」
「〇〇は、難しい」
「時間がかかる」
これは、言い換えると「それだけ、自分が自分に優しくしていい」「自分を愛することを学ぶ時期」とも言えます。
それと同時に、内なる神に意識を向け続ける。耳を、心を、向け続ける。
これを、わたしの言葉で書くと、これは内なる神との対話であり、祈りであり、これというのは、「神とわたしの一対一」です。これがベースです。
(余談)出会ったシャーマン・サイキックたちは、口を揃えて「神と出会うときは孤独になるもんよね〜」と言ってました。これは、霊能者さんたちに限った大袈裟な話ではなくて、たとえば、今、好きな人に片思いしていてさみしいとか、独身でひとりでさみしい、という場合にも言えることだと、わたしは、思っています。
内なる神(心の奥にある光)を信じないまま、人や何かを安易に信じる・妄信することほど危険、危険というか、自分を傷つけることは、ありません。
「それだけ、自分が自分に優しくしていい」「自分を愛することを学ぶ時期」
これは「優しい嬉しい言葉」に聞こえることもありますが、一方でビビるというか、それでいいわけない、みたいになる方もいらっしゃるかもしれません。
誰かを憎悪するのは、自分を憎悪しているから。
誰かを嫌うのは、それほどまでに、自分を嫌っているから。
誰かをジャッジしたくなるのは、自分を厳しく厳しくジャッジして禁止してます。
「例外なくです」。
これ以上、自分をジャッジして、緊張させて、条件付けの愛を与えるなど、もうつらくてできない、
と言うところまで、鏡の実践だったり、内観だったり、祈りだったりが、連れて行ってくれる。